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【受験】特色選抜の本質を問う—「自由にアピールできるはずが…“数値と表彰”がなければ評価されない不条理」



1. 特色選抜は「才能の多様性」を評価する制度だったはずだ

特色選抜(特別選抜、AO入試などを含む)は、本来、学力試験だけでは測れない生徒の個性や能力を評価するために導入された。

現代社会では、知識偏重型の教育だけではなく、創造性、リーダーシップ、社会貢献など、多様な資質が求められている。特色選抜は、そのニーズに応える形で「生徒の多面的な能力」を評価し、従来の一律的な入試制度を補完する目的で誕生した。

ところが、現在の制度運用を見ていると、この理念は大きく歪められている。


2. なぜ「数値化」に頼るのか?

多くの学校では、特色選抜の評価基準を「数値化」することで、選抜プロセスを機械的に処理している。
例えば、

  • 「県大会優勝:10ポイント」「全国大会出場:20ポイント」

  • 「ボランティア活動:表彰がなければ評価対象外」

といったように、表彰歴や競技成績のような客観的なデータが優先され、
「生徒がどのようなプロセスを経て成長したのか」は、ほとんど考慮されていない。

このアプローチは、いくつかの重要な問題をはらんでいる。


3. 「実績」と「学びの深さ」は同じではない

個人の価値を「数値」や「外部の認定」によって評価することには、構造的な偏りがある。
特に教育においては、「結果」よりも「プロセス」が重要であるにもかかわらず、それが無視されている。

例1:ボランティア活動

仮に、生徒Aが2年間にわたって地域の高齢者支援活動を自主的に行い、多くの人に影響を与えたとする。しかし、公式な表彰を受けていなければ、評価されない。
一方で、生徒Bがたった1回のイベントに参加し、偶然表彰された場合、その活動は評価対象となる。

このような仕組みは、「継続的な努力」や「活動の質」よりも、「認知されやすい成果」を優先する社会的バイアスを生んでしまう。

例2:文化活動とスポーツ大会

音楽や演劇、創作活動のような分野では、全国規模のコンクールが限られており、努力が「ポイント化」されにくい。一方、スポーツ競技は全国大会の枠組みが確立されているため、評価の対象になりやすい。
この差が「努力の価値」ではなく「競技の枠組みの有無」によって生まれている点も、特色選抜の本来の趣旨と矛盾する。


4. 「平等」の名のもとに奪われる個性

ある学校では、特色選抜のプレゼンテーションの機会を申し出た生徒に対し、教師が「えー、やるの?」と面倒くさがる反応をしたという。生徒にとって、自分の経験を言葉で伝える場はとても大切なはず。しかし、教師側が「余計な仕事が増える」と感じ、積極的に支援しないのは、教育の在り方として疑問が残る。

また、**「生徒ごとに実績の差があるので、評価基準を統一するために、一部の実績しか申請できない」と説明を受けた生徒もいる。つまり、「実績が多い生徒と少ない生徒の差をなくすために、実績のある生徒の評価を制限する」**という理屈である。

しかし、この考え方は本末転倒ではないか?

本来、平等とは「すべての生徒が自分の強みをアピールできる環境を整えること」であり、「一律の基準で押し込めること」ではない。

個々の生徒が持つ個性や経験を自由に表現できる場を作らず、一律に点数化することで「平等」を実現しようとするのは、むしろ不公平ではないだろうか。


5. 特色選抜の「評価する側」が変わるべきだ

この問題の根本には、「評価する側の手間を減らすために、制度を単純化している」という教育機関の姿勢がある。

本来の特色選抜のあるべき評価方法

  • 生徒が自己分析し、自らの経験を言葉で説明する機会を提供する。

  • 活動の意義や学びの深さを評価し、「プロセス」を重視する。

  • 数字では測れない「個人の価値」を認める。

現実の評価方法

  • 「表彰歴○点」「大会成績○点」と機械的に数値化し、簡単にランク付けする。

  • 受賞歴がない活動は評価されない。

  • 教師が深く考えなくても済むように、簡略化された基準を適用する。

これでは、「特色」を評価する制度のはずが、単なる「実績競争」になってしまう。

特色選抜を本当に意義のあるものにするためには、「効率化」ではなく「人を育てる」視点に立ち返ることが必要だ。
「評価する側が楽をする制度」ではなく、「生徒一人ひとりの可能性を見抜く仕組み」を作るべき時ではないだろうか?

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