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トリュフォー―映画の窓、窓の映画 『突然炎のごとく』と『恋のエチュード』をめぐって

雑誌『リュミエール』最終号に掲載されたフランソワ・トリュフォー論を、改稿しました。


初めは木の葉の舞い落ちるように細やかな動きで天空から降り来たり、やがては視界を埋めつくすほどの大きさと広がりで、言い知れぬ悲しみがこの地上を覆ってしまう。アルヴォ・ペルトの『ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌』は、そんなふうに言ってみるほかない不思議な音の息づく世界だ。切れ切れの音の単位は増殖を重ねながら、大きな時間の中に流れ込んでゆき、深く切り立った和声はその落差を失いつつ、果てもなく続く音の空間にならされて行く。人を悼むという死と愛が互いを呼び交わすかの営みを、このエストニアの作曲家は、かかる音による時間と空間の変容として、聞く者に体験させる。フランソワ・トリュフォーのある種の映画が人に伝えて来るのも、しばしばこれに似た感覚にほかならない。定まった形もなく、ただ愛だとか死だとかと名づけるほかない何ものかが観る者の心に届くのは、決まって映画が彼らの時間と空間の感覚を強く揺さぶって来る瞬間である。

『二十歳の恋』の冒頭、ジャン=ピエール・レオ―扮するアントワーヌ・ドワネルが、パリの街に向けてアパルトマンの窓を開け放つ。窓が開かれるとともに、それを外から眺めるカメラは大きく引かれ、パリの街が炸裂的に視野に入ってくる。トリュフォー映画にあってレオーがドワネルを繰り返し演じ続けるように、窓のショットはトリュフォー映画の中で繰り返し反復され、変容することになる。窓はいわば、トリュフォーという映画作家が映画に向けて放つマニフェストのようにも見えてくる。たとえば『夜霧の恋人たち』の冒頭、兵役を終えたレオー(ドワネル)が自分の部屋に戻って来る場面でも、帰還という儀式をしめくくる街に向けた挨拶であるかのように、窓が開け放たれるのだ。

『二十歳の恋』ではマリー・フランス・ピジェに恋したレオーが、彼女の家に出入りするだけでは足りず、彼女のアパルトマンの真向かいの部屋に引っ越してしまう。あくまでレオー=ドワネルらしい軽快さで空間を移動していく行動様式が、再び窓を映画に呼び寄せる。彼が新しい部屋の窓から向かいの窓を眺めていると、外出から帰ったらしいピジェの一家が、逆に彼を発見してしまう。彼の当惑と満足の入り混じった表情をよそに、どやどやと彼の部屋に上がり込んで来た彼らは、部屋の窓を開くとそのすぐ向こうに自分たちの窓を発見する。発見する=発見される、という眩惑的な視線の往還がこの映画の窓のドラマを鮮やかに輪郭づける。向かい合った窓をめぐるこの場面が当然ヒッチコックの『裏窓』を踏襲したものであることは明らかだ。しかし、トリュフォーの窓は、窓を隔ててサスペンスフルな緊張が張り詰めるわけではない。『二十歳の恋』は、冒頭で街に向けた孤独な敬礼のように開かれた窓が、もう一つの、自分を見つめ返し微笑む窓に出会う映画だ。トリュフォーの映画において、窓という言葉は愛という言葉に置き換えることが出来る、と言うこともできるに違いないのだ。

窓という装置が愛というイデーを空間的に形象化しようとするそんな身振りを、『突然炎のごとく』は様々に展開して見せる。ジュールとジムとカトリーヌという三人の男女の結びつきを、まず窓が語り始める。避暑で出かけた山荘でカトリーヌが窓を開き、二人の男をそれぞれに呼ぶと、隣の部屋、そしてその上の部屋の窓が次々に開き、ジュールとジムが姿を現す。野外に置かれたカメラは、引きながら順に開いていく窓をとらえ、画面に大きく空間を解き放ちながら、窓と窓が互いを呼び交わすような運動を見る者に経験させる。三人がひと夏を過ごした後、カメラは再び同じ位置で、窓を開くカトリーヌをとらえる。「雨になった。パリに帰りたい。」と言いながら、彼女が二人を呼ぶが、今度は窓が連鎖的に開いて行くあの空間の解放はなく、同じ窓から男二人が現れる。過ぎ去っていったものは、窓と空間が語るのみだ。

窓という空間的主題は、この映画のもう一つの山荘で、さらに細やかに展開されることになる。先のバカンスから第一次大戦を挟んだ数年後、ジュールとカトリーヌが住んでいるドイツの山小屋を、ジムが訪ねてくる。それ以後営まれる三人の同居生活が異様な様相を呈してくるのは、二人の夫と一人の妻という人物配置によるのではない。感情の動きを語る俳優たちの演技の寡黙さと、彼らを取り巻く空間の雄弁さとの対照が、映画に不思議な表現力を与えているのだ。

妻といっしょになれ、というジュールの夜の電話に、ジムが自分の宿から山荘に駆けつける。玄関のポーチからやって来るジムをとらえていたカメラがすっと引いたかと思うと、窓枠がフレームに現れる(カメラは室内から窓越しにジムを見ていたのだ)。カメラはさらに引いていき、窓を開いて男を迎え入れるカトリーヌを画面に導き入れる。カトリーヌの表情も暗い中でしかとは分からず、画面のこちら側に近づいてくるジムもことさら大きな身振りを示すわけではない。この二人の俳優は、カメラが引く運動になじむような動きで窓を開け、手を取り合うという仕種を見せるのみだ。この場面が伝えてくるエモーショナルな力はひとえに、窓が開かれるという空間の変容が生み出しているのだ。

手を取り合った二人が互いの顔に触れ合うショットでは、二人の顔はシルエットで浮き上がり、ただ彼らの背後にあって月明かりに映える樹々を見せる窓だけが、彼らの顔を見つめている。が、カメラが窓に沿って上っていったかと思うと、それはもう夜の明けた明るい空をとらえている。夫のいる家で妻が他の男と一夜を共にした事実を、映画は彼らの顔でなく窓に語らせるのだ。次にくるシーンでは、ジュールがカトリーヌとの間に作った娘とポーチで遊んでいると、窓からカトリーヌが顔を見せ、ついで同じ窓からジムが姿を現す。そのときの三人の俳優たちの無表情は印象的だ。彼らはまるでブレッソンの俳優たちのように、意味ある表情を顔から消し去っている。起こってしまったことを語るのは人の顔ではない。それは、一つの窓から複数の人間が姿を現すという、先のモティーフがもう一度繰り返されることに託されているのだ。

『突然炎のごとく』


ジムが下の部屋で本を読んでいる(トリュフォーの主人公たちは実によく本を読む)のを、カメラは外から窓越しに眺めている。それにナレーションがかぶさる。「ジムが一階で本を読んでいるとき、カトリーヌがジュールを誘惑しようとした。」上の部屋に喚声が起こり、思わずジムが上を見上げると、カメラはクレーンでするすると上に登って行き、二階の部屋をやはり窓越しにとらえる。ベッドではカトリーヌが元の夫(?)のジュールと戯れている。再度ナレーションが入る。「ジュールが言った。だめだめ、だめだよ。カトリーヌが言った。いいのよ、いいのよ。」カメラはもう一度下に降りて行き、読書を投げ出して部屋をうろうろしているジムをとらえる。再びナレーション。「嫉妬する権利はないと思いながら、ジムは嫉妬した。カトリーヌはそれを知り、以後は慎んだ。」

窓が示す上下二つの空間の出来事が同じ時間の中で進行している、という痛々しいほどの実感は、この場面がワンショットで撮影されていることから来る。しかし、そこでのリアルタイムの生々しさを、このナレーションは逆に殺している。この光景の前後の時制をナレーションが画面に持ち込んでくるからだ。進行しつつあるのっぴきならない時間を生々しく伝えておきながら、ナレーションはそこに他の時間をも流し入れてしまう。観る者がこの矛盾した画面から受け取るのは、時間感覚の不思議な揺れ動きである。

この場面の少し前、ジュールと暮らしながら複数の愛人のもとを訪れるカトリーヌのことを、ジュールがジムに語る場面がある。ジュールは独り言ちながら、山荘の居間の窓に歩み寄り、夜の森に向けて窓を開け放つ。その瞬間、夜の山の様々な物音が窓に臨むジュールの「仏教僧のような」諦念に満ちた声に重なり、トリュフォーの映画の中でも最も沈痛な静けさに満ちた空間を作り出す。全てが起こってしまったこととして過去の中に溶け去ってしまう、時の終わりのような場面。窓に佇む人というこの映画のモティーフが、模倣と変容の果てに、ここで終焉を迎えることが相応しいのではないか。そんな予感にとらわれた観客は、次の場面で起こることに驚かされる。この映画が再び窓から飛び出して、豊かな空間の広がりの中に人の動きを解き放つからだ。

次の晩、居間で三人が話をしているうちに、カトリーヌが突然部屋から飛び出して行き、ジムを誘う。「私をつかまえて!」夜の草原を走るカトリーヌの白いセーターをジムがとらえ、二人は語らいながら歩き始める。丘の上からこちらにやって来る二人が、ロングからアップになるまでの長い時間を、カメラはワンショットで追い続ける。そこで再び、人の声が別の時制を映画に持ち込んでくる。まず、ジムがジュールとの思い出を話す科白がナレーションで語られた後、やがて二人がカメラに近づいて来ると、前夜、ジュールがジムに告白した出来事を、今度はカトリーヌが自らの口で語り始める。月の光に背を向けて歩くジャンヌ・モローのセーターの白が、どこまでも続く丘の空間と夜の時間を渡って来る。その時間と空間をワンショットで共有し得る陶酔に身を任せる一方、ナレーションとモノローグがそこに複数の時間を重層的に流れ込ませるので、観る者は絶えずこの情景が、いくつもの時間を超えてきた遠い幻影であるかのような感に襲われるのだ。

映画とは目覚めながら見る夢に似ている。スクリーンという夢の領域に没入するかたわらで、スクリーンを見つめる自分自身に覚醒し続ける。大切なのは、絶えず夢見続けるとともに、絶えず覚醒し続けることだろう。トリュフォーの映画が観客に届けてくるのは、そういう感覚だ。


トリュフォー映画の系図の中で、『突然炎のごとく』とほとんど相似的な関係にある映画が、『恋のエチュード』なのは明らかだ。共にアンリ=ピエール・ロシェの自伝的小説を原作に持つこと。第一次大戦を挟んだ長い年月の中で語られる恋愛の年代記であること。二人の男と一人の女という前者の人物配置を反転させた形で、後者が二人の女と一人の男という設定を持っていること。そして、この二つの映画が、丘の上下を隔てて二つの家が向かい合う空間を共有していること。

『突然炎のごとく』では、ジュールからカトリーヌの奔放な行動を聞かされて、ジムは彼らの山荘の斜面のさらに上方に位置する宿に戻って来る。翌朝、ジムは自室の窓からはるか下にある山荘を見下ろして述懐する。「カトリーヌはあそこにいる。あそこから逃げ出そうとしながら。」その夜、ジュールはジムに先の告白を行うことになるのだし、やがてジムは彼女と夫婦同然の暮らしをすることになる彼らの山荘へと引っ越していく、という結果にもなる。

『恋のエチュード』のレオー扮するクロードも、丘の中腹にある英国人姉妹の家からその上方に位置する家に引っ越してくる。姉妹の家でクロードと妹のミュリエルとが親密になるのを見てとった姉妹の母親が、世間体を案じてクロードを丘の上の知人の家に移したのである。引っ越したクロードは、新しい孤独の中でミュリエルと自分の関係に目覚め、トリュフォー映画のレオーに相応しい性急さで、早速ミュリエルに求婚の手紙を書き始める。手紙を姉妹の家の郵便受けに投函したクロードは、次の朝、窓を開いて眼下の家を眺める。彼が見ている前で姉妹が家から姿を現すと、この映画で多用されるアイリスで画面が絞られて行き、ついには姉妹二人の姿が画面の中心に消えて行く。クロードの窓からは当然彼女らの会話は聞き取れない。トリュフォーがヒッチコックから学んだに違いないサスペンスフルな空間的距離感が、ここでは狂おしいほどの焦燥感を掻き立てる。それはそこに手紙という要素が介在しているからだ。

『恋のエチュード』という映画には、おびただしい量の手紙があふれている。だがこの映画にあって、手紙はまず声に出して読まれるものである(それは『華氏451』の書物が、最後には朗読によってのみ存在を許されるテキストとなって、降りしきる雪とともにあのラストシーンを覆い尽くしていた記憶に直接結びつきもするだろう)。手紙が声となって映像を横切って行く場面は異様に多く、しかもそこにクロードやミュリエルの日記を読む声や、トリュフォー自身のナレーションが加わってくるので、『恋のエチュード』全編は、人の声の刻むゆったりとしたリズムによって静かに満たされることになる。

だが、手紙や日記を読む声は、そのゆるやかな流れで画面を支配するだけでなく、しばしば凍りつくような酷薄な場面を作り出す。例えば姉妹との英国での生活を、クロードがパリの母親に書き送る。母親が手紙を声に出して読むのを聞いていたメイドが、クロードはミュリエルを愛しているのだと口を挟むと、母親が即座に言い返す。「いいえ、あの子は彼女らを二人とも愛しているのです。」あるいは、パリにもどったクロードが婚約を破棄する手紙をミュリエルに書くことになるが、彼がそれを投函する前に母親に読ませる場面。手紙を読む母親の顔と声とは、能うかぎり感情を抑えているので、画面に感傷の入り込む余地はない。ただ息子の手紙を母親が読んでいるという身も蓋もない事実が、ミュリエルの敗北を惨たらしく観る者に伝えて来るのだ。

手紙を母親に手渡すクロードのロングショットから、それを読む彼女の顔のアップまでをワンショットでとらえたカットが、次のカットで郵便受けから手紙を取り出す英国のミュリエルのカットにつながる展開は凄まじい。封を切って手紙を読んだミュリエルが庭にくずおれ、母親が表に飛び出してくるまでがやはりワンショットで描かれる。トラヴェリングとズームインで室内の空間を収縮させていく前者のカットと、パンとズームアウトで野外の空間を拡張していく後者のそれとの、運動の対称性。静かな声が室内をゆったりとした時間で満たす前者と、人の動きが突然停止し姉と母親の叫び声が突然時間を停止させる後者との、時間の進行の対称性。一通の手紙を軸に二組の悲劇的な母子を描き出すトリュフォーの演出は、手紙と声とが時空のダイナミックな収縮と拡散を作り出していく過程を見る者に経験させる。

手紙はトリュフォー映画に劇的な時空の転換をもたらすことになるが、実はその端緒となるシーンが、『突然炎のごとく』にもある。ジュールを交えながらのカトリーヌとの奇妙な同居生活にも破局が訪れ、ジムはパリへ戻っていくが、そこへカトリーヌから妊娠を告げる手紙が届く。山荘へ戻ってほしい、いや戻るつもりはない、といった手紙のやりとりが続くが、その中にさし挟まれる次の場面。病床のジムが二度目の拒絶の手紙を書きあげて、パリでの愛人ジルベルトに投函を頼む。ジルベルトが外へ出ようとして、玄関の扉の下にジム宛ての手紙を見つける。それを渡してジルベルトは出かけるが、ジムは思いもよらず心のこもったカトリーヌの手紙を読み、すぐさま窓に駆け寄り、街路を遠ざかるジルベルトを呼ぶが、間に合わず、手紙は投函されてしまう。手紙と窓を介して、時間と空間がフーガのように互いを追いかけ合うこのシーンを、トリュフォーはよほど気に入ったらしい。次作の『柔らかい肌』でも、手紙を電話にすり替えて全く同じ場面を作り出している。

『恋のエチュード』のミュリエルの部屋に視線を戻すと、そこでは窓に向かって、彼女がクロードの手紙を読んでいる。カメラは寝衣の彼女の背中越しに、外に向けて開かれた窓を捉えている。はるか大陸に続く海が、窓からの視界を満たしている。手紙と窓と寝衣という繋がりによって、この空間は『突然炎のごとく』で先に見たジムの寝室の、隔世遺伝的な生まれ変わりであることが知れる。しかし、このショットに始まる一連のミュリエルの室内の場面は、もう時間と空間の生き生きとした戯れを、映画に作り出したりはしない。英語とフランス語で語り分けられる日記のモノローグ(フランス語はクロードに向けられているのだろう)は、いかにして闇の中の悲鳴へと変わり、やがて老人のような英語のモノローグへと至るか。窓からの外光が、いかにして内側からのランプの光に変わっていくか。人が倒れ横たわるショットが、いかにして反復されるか。晴天の太陽と海に向かって開かれていた窓が、いかにして夜の雨に打たれることになるか。

その後、映画には一度だけ、クロードとミュリエルが結ばれる場面が訪れる。が、それはもうダイナミックな映画の運動を生むことはなく、あっけないほどの性急さで描かれる。ラスト近く、クロードは彼の子どもを身ごもったというミュリエルの手紙を読んでいる。しかし、『恋のエチュード』では、この手紙はもうクロードを窓に向かって走らせる力を持たされてはいない。その手紙の中の「この手紙はあなたの皮膚。このインクは私の血。」という言葉が『突然炎のごとく』でカトリーヌが自分の妊娠を書き記した手紙と同文であることは、しかし、二つの映画の近親性ではなく、距離の隔たりを感じさせるものでしかない。次の場面でもう彼は、妊娠が間違いだったことを告げてくる女の手紙を読んでいるからだ。もはや生命の兆しがこの映画で語られるなど、あり得ることではないのだ。もはや手紙を書く人の顔も読む人の顔も画面には示されず、それを読みながら歩いて行く男の後姿だけが、暗いアパルトマンの廊下の奥に消えていく。過ぎ去っていく時間と閉ざされていく空間とが、映画そのものを封印する瞬間である。

『恋のエチュード』


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