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ブレッソンー呼び声の変容

ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』は、高校生のときに見て衝撃を受けた映画でした。一言で言えば、映画の力に打ちのめされた体験でした。その後、『バルタザールどこへ行く』を見て、さらにこの映画作家の圧倒的な映画表現に、身の置き所のないような感動を覚えました。

ブレッソンの映画は、極度に切り詰められた簡潔さと直截的に感覚に迫る官能性とをもっています。正に映画でしか伝えることの出来ない表現を追い求めた営み、と言うべきでしょう。

30代の頃、雑誌「リュミエール」が刊行され、そこに文章を投稿しようと思い立ったとき、まず心に浮かんだのがブレッソンの映画でした。彼の映画とは一体何なのか、言葉にしなければならないと思いました。

「リュミエール」第5号のブレッソン特集には、蓮實重彦とル・クレジオの『ラルジャン』論やカンヌでのブレッソンのインタビューがあり、その中に私のブレッソン論が掲載されて驚いたのを覚えていますが、今読み返してみると、私の映画批評の基本的な方法論はこの文章に凝縮しているとも思えます。

その文章を以下にアップします。

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ブレッソン ――呼び声の変容

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誰かがしきりに女の名を呼んでいる。眠りの淵から帰ることのない人を呼ぶようなひたすらさだ。なぜそんなに張り詰めた声で呼ぶのだろう。「ムシェット!」

ブレッソンのヒロインを常に輪郭づけているのは、この呼び声だ。この呼び声が、いつでもハッとするようなひたむきさで発せられるので、ブレッソンを観た者の記憶には、ヒロインの一度見たら忘れられないような面差しと分かち難く、その名前が強く刻み込まれることになる。その名前が声となって呼びかけられる際の、ただごととは思えない響きは一体何だろう。

『少女ムシェット』の冒頭、見すぼらしい身なりで学校に向かう少女がスクリーンに現れる。そのとたん、待ち構えていたように、その声は一人の女生徒から投げかけられる。「ムシェット!」その声で貧しい少女は振り返り、カットが閉じられるのだから、これは観る者に、ああこれがこの映画のヒロインなのだ、と認知させる目的で置かれたショットであるのは、間違いようのないことだ。が、そんな当初の目的を逸脱するような、切羽詰まった調子で、この声は画面に打ち込まれる。一旦この呼び声の響きを耳にした者は、映画の中で繰り返される「ムシェット!」という呼び声が、その背景や目的の場面ごとの相違を超えて共鳴し合う、声の連鎖だとしか思えなくなる。学校帰りのムシェットを呼び止め、自分のズボンを下ろして見せる男の子呼び声(「ムシェット!」)は、思春期の性的な悪戯という意味だけでなく、不幸な少女を指さして「受難」という言葉を呼びかける声、といった様相を帯び始めるし、やがて母親を失った少女が、残された赤ん坊のためにミルクを乞いに歩く場面で三度、投げかけられる「ムシェット!」という呼び声は、周囲の同情や悪意の表明であると同時に、やがて森の池に身を投げることになる少女の運命を指し示す符牒以外のものとして聞くのが難しくなってくる。

不思議なことだ。ブレッソンを観た者の耳に残っている声は、悲劇的な運命を生きたヒロイン自身の声ではなく、その周囲の人々によって発せられた彼女の名前にほかならない。無論、我々は『ムシェット』に主人公の肉声を聞くことができる。映画の前半を、固く口を閉ざしていた少女が、やっと癲癇持ちの密猟者(ブレッソンの最も神話的なキャラクターのひとり)に向けて声を発する。「道に迷ってしまって……。」深い森の中で呟くように口に出されたその言葉に、感動しない者はいないが、しかしその声がどのような響きをもって発せられたかを、観終わって覚えている者がいるだろうか。また、死の床にある母親に向けて、密猟者との出来事を告げようとするムシェットの言葉(「お母さん、話があるのよ……。」)を、観た者は忘れるはずはないのだが、しかしその声の響きを、我々は思い出すことができるだろうか。それらヒロイン自身の声は、他の者に届くことを最初からあきらめているような響きで発せられる。窓を曇らせる水蒸気が空気中に散逸していこうとするようなその響きは、聞く者の心に植えつけられ、育っていこうとする生命力を予め放棄しているように思える。聞く者は、それを聞いたそばからもうそれがどういう声で発語された、ということを忘れていってしまう。ブレッソンのヒロインが身に纏っている声は自らの声ではなく、他の者が自分を呼ぶ声なのだ。目に見えるドラマを超えて、その声そのものが自分自身の物語を語り始めてしまうのが、ブレッソンの映画にほかならない。そんな奇妙で予測し難いドラマを紡ぎ出すために、どれほどの耳の良さが必要とされるのか。

この映画作家の耳の感度を、我々は彼の作品に充満している物音に注意を払うことで理解することができる。『ムシェット』の冒頭には、森の中のウズラが密猟者の罠にかかるシーンがある。そのシーンの精妙さと、ドラマ全体の暗喩としての抜き差しならない意味(柳町光男が『火まつり』でそれを模倣している)とを支えているのは、草を踏み分ける足音や微かな身じろぎの音、突然の鳥の羽音といった、息もつかせぬ音響処理にほかならない。その上ブレッソンの映画には、日常の物音をワーグナーのライト・モティーフのように、登場人物のテーマとして使ってしまう発想がある。森番のマチュー(森番と密猟者という人物配置にルノワールの『ゲームの規則』を思い浮かべない者はいないだろう)が、地面を歩く足音にその存在を特徴づけられていたり、密造酒を売るムシェットの父親が、常にそのトラックのエンジン音と結びつけられたキャラクターになっていたりすること(彼が寝床に就いてもまだトラックを運転している真似をして、口からエンジンの音を出しているのを思い出す)。ムシェットがまだ映画の中で一言も口を開かないうちに、彼女の存在と周囲の世界との関係を、観る者に誤解の余地なく示すのは、彼女の木靴が教室に響かせる大きな音である。

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そういった音響空間を経験する中で、映画を観る者の耳は覚醒し、次に来る物音を鋭敏に待ち受けるようになって来ざるを得ない。映画作家の耳の良さというのは、そんな風に観客を目覚めさせる。その過程でいやでも耳に入って来るのが、映画を貫いて語られるもう一つの物語としての呼び声である。『バルタザールどこへ行く』の少女マリーも、そうした呼び声を身に纏うヒロインの一人にほかならない。この映画でも、終始低く囁かれる人声の中から、鋭く起ち上って来るのが、薄幸のヒロインを呼ぶ「マリー!」という短い声である。密輸に携わる不良少年に係わってしまうことで転落していく、という意味でこのヒロインは明らかに次の作品のムシェットの前身である。そして彼女に向けて注がれるのが、父親や幼な馴染みのジャックの、やはりここでも切迫した響きで繰り返される呼び声なのだ。

だが、ここでの呼び声は明らかに『ムシェット』の場合とは異なった性格を持たされている(製作の順序から言うと、『ムシェット』の方が『バルタザール』の主題の敷衍となっているわけだが)。『ムシェット』の場合、その呼び声は殆ど例外なく、歩いていくヒロインを呼び止めるためのものであったのを思い出すが、『バルタザール』ではこの声が、どこか別の場所にいる女主人公の所在を問うために発せられる場合が圧倒的に多いのである。最初の呼び声はジャックによるものだが、それはロバのバルタザールに秘蹟を施す遊びにマリーを誘う目的で発せられるものだ。この映画の呼び声が、不在のヒロインを求めて投げかけられる、という性格を持つことが既にここで観る者に示される。言うまでもないが、ここでもジャックの呼びかけの子供らしい性急さを逸脱した緊迫感でこの声は発せられ、次に来るであろう同じような機会に、この声のただならぬ調子の拠って来たる所を確かめよう、という観客の意識下の身構えを準備する。父親が所々で発する「マリー!」という声にしても、何気ない呼びかけでありながらそれは、来たるべき娘の出奔を予め知っているかのような、不在への怖れに満ちている。それが、やがて現実の娘の不在に直面した際の、呼び声となって繰り返される時のことを、観る者は待ち受ける。呼び声というブレッソン的物語の展開が、やがてカタストロフを迎える瞬間が到来するはずなのだ。

不良少年に犯されたマリーが、やがて山小屋で密会を重ねるようになる。その小屋の前を父親が、娘を捜しながら通り過ぎる。鋭い後寄りのアクセントで「マリー!マリー!」と呼びかける父親の声が、小屋の中の二人の身を一層固く結びつける。内と外という空間の隔たりを一息に乗り越えて働きかけてくるかに見える声が、結局、内・外の空間の隔たりを決定的なものにしてしまう。娘の不在を怖れる父親の声が、逆に娘を他の空間へ、不在へと追い立てる声に変容する瞬間。父親の呼び声が併せ持つひたすらさと無力さとが、空間の価値を逆転させる一瞬、目を覆いたくなるような残酷さに変わる、真にブレッソン的変容の瞬間である。

『ムシェット』が呼び声の物語であると共に、物音の物語であったのと同様、『バルタザール』も奇想天外な、とも言える物音の物語を持っている。不良少年のジェラールは、バイクの音や自転車の急ブレーキの音、ビンの割られる音、といった暴力的な音をその身に纏いつかせている存在である。物音のドラマが息づき始めるのは、爆音や摩擦音、炸裂音といった諸々のジェラール的な音が、映画のもう一方の主人公であるロバと出会い、関わる過程においてである。不良少年達が乱痴気騒ぎをしているカフェの外では、ロバのバルタザールが鎖につながれている。爆竹が強烈な音で鳴らされる度に、ロバはピクリと身を震わせる。まるで鞭のようにロバを襲う爆竹の音は、この哀れなロバの受難をブレッソン的な直截さで伝えて来るわけだが、観る者の注意を引くのは、繰り返し打ち鳴らされる爆竹に、ロバが次第に馴れて来て、何の反応も示さなくなる、というカットだ。ロバの感覚の馴化を追う映像に何の意味があるのか。

ラスト・シーン近くで再びこの爆裂音が画面に鳴り渡る時に、その意味は理解されることになる。密輸の片棒を担がされて、夜の山道を歩くバルタザール。そこへ国境警備隊の発砲による銃声が炸裂する。爆竹の音はロバの記憶に残っているらしいが、爆竹と銃声との相違をロバは理解しない。バルタザールは何の反応も示さない。銃声の中の無反応なロバの顔のアップをしばらく見せられた後、やがてロバがビクリと身体を震わせることで、観る者はその被弾を知る。この一連の映像が見る者に与える不思議な印象を、言葉に表すのは難しい。爆竹と銃声とはロバの中では等価である。そのロバの感覚、と言うより神経を観客は学ぶことになるのだろう。爆竹も銃声も歯を剥きだしにした世界そのものの声だ。我が身が害を被るとか被らないとかいうことは、その声の生々しい凶暴さに触れることとは殆ど関係がない。そんな声には耳を塞ぐか馴れてしまうほかに方法がないのだ。誰がロバを笑えるだろう。

観る者が次に耳にする夜明けの牧場の音を、息を呑むほどの美しさを伴ったものとして聞きとるのは、彼らが完全にロバの耳を持たされていることによる。瀕死のバルタザールが聞く羊の首の鈴の音は、羊の動きにつれて朝の光の中に鳴り渡り、世界の暴力があれほどはっきりした声として存在するのと同様に、世界の恩寵もまた、聞き違えようのない声となって存在しているのを、ロバの耳に伝えて来るのだ。

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呼び声と物音の物語は、『白夜』で更に語り継がれる。その響きは個々の作品の枠を超えて交わされ合う木霊のように、共鳴を止めない。

『白夜』のヒロイン、マルトは自分の家の下宿人の学生と愛し合うことになるが、彼らが知り合い、抱擁に至る過程のあまりの唐突さに、観ている者は呆気にとられる。それは殆ど一瞬の出来事だ。学生が下宿を引き払う夜、初めて彼らはお互いに顔を合わせる。女が同行を求めたかと思うと、その一瞬後には、もう二人は全裸になってお互いの腕の中にいる。この理不尽とも言える唐突さを、これは少しも唐突なことではない、などとこの映画作家が言うつもりでないことは明らかだ。この唐突さを唐突さそのものとして受け止めるために、ブレッソンの大胆で繊細な映画的感性が動き始める。再び呼び声が空間の中に召還される。二人が一息に恋人達となって抱き合う瞬間、その部屋の外に呼び声が聞こえるのだ。母親が娘を呼ぶ「マルト!マルト!」という声である。例によって場違いなほどこわばった母親の呼び声と、彼女が廊下を行き来する足音とが、二人の抱擁をさらに激しく強いものにし、次の瞬間には、全裸の二人の身じろぎしない彫刻のような姿を現前せしめることになる。この場面が、先に述べた『バルタザール』の山小屋の場面を、そっくり模倣したものであるのは、誰にでもすぐわかる(父親と娘という関係を母親と娘とのそれに転換する小津安二郎的リフレイン)。

が、無論、『白夜』のこの場面は『バルタザール』の同工異曲的模倣ではない。『バルタザール』では、カメラは娘を捜す父親の側にあるが、『白夜』においては、カメラは恋人達の部屋の中にある。我々が画面の中に見出す母親は、廊下を歩く膝から下の足と、コツコツ響く足音と、娘を呼ぶ声とで示されているにすぎず、そのヒッチコック的な提喩は、いやがうえにも母親を、内側への侵入を図る、外側の存在として示すことになる。前の場面では娘とお茶を飲んだり、映画に行ったりする等身大の母親であったものが、ここでにわかに画面に全うに姿を見せない、外側からの侵入者としての相貌を見せるに至るのだ。呼び声と物音とが不意に人々の所在を厳格に内と外とに振り分け、その内側を濃密な官能的空間に変える。その唐突な空間の変容こそが恋人達の行動の唐突さに響き合って、ブレッソン的な変容の瞬間をつくり出しているのだ。

この場面を正確に送り届け、享受させるために、ブレッソンは観る者の音と空間に対する感受性を目覚めさせる導入部を、用意することを忘れていない。この前夜の、マルトと学生とのやりとりを描く場面である。自室で服を脱ぎ、自らの裸身を鏡に映してみたマルトが、寝床へ入ると、壁の向こうの学生の部屋からコツコツと音がする。次に壁に耳を当ててマルトの部屋の様子を窺う学生のカット。マルトがそっと部屋を出て、学生の部屋を鍵穴から覗き込み、あわてて部屋に戻るカット。学生が部屋から出てマルトのドアを開けようとしてノブをガチャリといわせるカット。そういう鬼ごっこのようなカットの連なりを通して、この映画は、わずかな物音が何の変哲もない廊下や室内を、内と外との空間が官能的に戯れ合う場へと変容させる過程を経験させる。

付け加えるまでもないだろうが、声や物音が空間を変容させていくという主題は、ブレッソンにあっては既に『抵抗』で示されている、。レジスタンスの闘士の脱獄の過程はそのまま、彼が与えられた独房という空間を、模索のうちに外へと広げていく過程にほかならない。その空間の拡張のための最も重要な作業のひとつが、声や物音に耳を澄ますという行為だったことを思い出そう。

『抵抗』にあっては逃走を、『ムシェット』や『バルタザール』にあっては受難を指し示す符牒であった呼び声や物音が、『白夜』にあっては愛と官能の空間を現出させる装置となる。そのことを観る者にもう一度強く印象づけるシーンが、『白夜』にはある。マルトを慕う画学生、ジャックがテープ・レコーダーに吹き込む「マルト!マルト!」という呼び声は、誰もが鮮明に思い出すことができる。ジャックがバスの中でテープ・レコーダーの再生ボタンを押し、その声を車内に響き渡らせるシーンには、ジャックの情熱の表現のひとつ、などという冷静な観察を観る者に許さない、殆ど猥褻と言っていい、生々しい官能の露出がある。それを見て眉をひそめる向かいの席の中年女性に、観る者は完全に一体化する。見てはいけないものを見てしまった、といったやり場のない居心地の悪さに、この場面は観る者を追いこんでしまう。バスの車内のよそよそしい空間を、人目もはばからない官能で満たしてしまうこの映画作家に対して、「控え目」だとか「禁欲的」だとかいう形容を、一体誰がして来たのだろうか。

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ブレッソンの映画のヒロインは、周囲の声がその名を呼ぶ、その呼び声によって存在を輪郭づけられている。ヒロインの物語はそのまま呼び名の物語であったと言っていい。だがここに、信じ難い映画が忽然と出現する。『やさしい女』のヒロインは名前を持たないのだ。ブレッソンの映画で名前のないヒロインなど、誰が予測し得ただろう。

冒頭、飛び下り自殺の死体として路上に横たわるドミニク・サンダの姿を目にして、観る者は誰もが来たるべき瞬間を待ち受ける。言うまでもなく、誰かが彼女の名前を、切羽詰まった声で呼ぶ瞬間である。呼び声の物語はそこに再び生起し、ブレッソンの映画に響き合う呼び声に新たな共鳴を加えていくに違いないのだ。しかし、次のカットでは既に彼女の遺体はベッドに横たえられており、親しい者が彼女の名を呼ぶ瞬間が、今ややり過ごされてしまっていることを観る者に伝えて来る。遺体を前にした夫の回想的独白が始まり、それにつれ映画は質屋を営む夫と彼女が出会うシーンへと遡行する。その、全編の大部分を成す回想シーンでも、最早彼女の名が呼ばれることはなく、不幸なヒロインは、終始「彼女」という代名詞で呼ばれるのみである。ブレッソンのヒロインが「彼女」などと呼ばれてしまう映画の不気味な静けさを、以後観る者は味わい続けることになる。

しかもなお、見る者をいぶかしい気持ちにさせるのは、むしろこの映画には、呼び声が発せられる契機となるはずの瞬間が豊かに散在している、ということだ。夫となるべきギイ・フランジャンが初めて女を誘う場面、大学の構内から出て来る彼女を、彼が車の中から呼び止める。今度こそ呼び声が強く画面を貫くだろう、という期待の漲る瞬間、呼び声は画面にもたらせることはなく、それと気付いた彼女の眼差しのみが、呼びかけられたことを示して、このカットは終る。呼び声は意図的に回避されているのだ。さらに、結婚生活に順応できない女がふらりと店を出ていってしまい、夫がそれを捜しに出る、などという呼び声への予感を孕んだ場面も一度ならずある。ブレッソンにあっては、捜索という主題が、いかに呼び声と強く結びつけられているかは、先に見た通りだ。が、そんな際にも、この女には初めから名前などありはしなかったように、女の名を呼ぶ声は一度たりとも画面に投げかけられることがない。男は無言のうちに女を捜し、そして嘘のようにあっさりと発見する、女が知らないうちに帰宅していたり、街の中で他の男と車にのっているのを偶然見つけたりするのだ。『バルタザール』や『白夜』では、捜索は常に不安に満ちた呼びかけの声を伴っており、事実、不安は的中し、捜される者は決して捜す者の前に姿を現すことはなかった。それにひきかえ『優しい女』では、呼び声を発する必要性を捜す者は初めから感じていないかのようだ。この映画には不在に対する恐怖感が欠如しているのだ。

これはブレッソンの映画に限らないことだが、そもそも映画というものに呼び声が発せられる限り、常にその場面における捜索は不成功のうちに終わることを、映画の観客はみんな知っている。一方が他方を捜しているという状態を、映画は科白の助けなしに表現することができる。従って一方の呼びかける声は、捜索という行為を示すのではなく、虚空に投げかけられるその不安な響きで、他方の不在が決定的なものであることを、観る者に伝えるのだ。呼び声は捜索の記号でなく、捜索の不可能性の記号にほかならない。ブレッソンの映画における呼び声も、そのゲームの規則をブレッソンのみが成し得るやり方で踏襲したものであったはずである。ブレッソンは『やさしい女』で。その規則の完全な裏返しをやっているのだ。

この映画の呼び声の沈黙は、ヒロインの不在などという事態があり得ないことの表明にほかならない。ヒロインが他の空間へ移動し隠蔽されることなど起こり得るはずがない。そういう不思議な確信に、この映画は包まれている。観る者も、次第にその確信に馴染んでゆく。横たわる女の死体が映画のそこかしこに現れるからだ。この世にない者の名を、誰が切羽詰まった声で呼んだりするだろうか。

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