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会社に関する、不毛で不幸なミーム

 投資や起業に関する本を読む機会が多い。学生にそういうことを教える立場だからなのだが、まあ自分の楽しみでもある。それに純粋に楽しみばかりでもない。投資はもちろん、起業だってする可能性が全くないわけでもないのだし。
 ただ、どうしても気になる点がある。多くの書き手が表明している次の命題だ。
  「会社は株主のもの」
 だが、これが肯定されるのは、あくまでも文学的な表現としてだろう。ジュリエットがロメオにささやくのと同じような類の言葉だということだ。しかし彼ら投資家(だけでもないが、この小文では提喩的にこう呼ばせてもらおう)たちの主張は、そういう次元にとどまらない。「ゆえに」と文章を続け、演繹してしまう。そして現れるのが、「会社は、株主の利益を最大化するためにある」などといった、決して文学的ではない主張になる。
 「経営者であるあなたは、
  私たち株主から会社を預かっている身に過ぎないのだから、
  もっと株主の利益を向上させる義務がある」

 そして、利益の内部留保を糾弾し株主還元をアピール、さらには会社の合理化によるコスト削減(それは通常大量の解雇を伴う)を提案したりする。その結論は、むしろシャイロックがアントニオに要求しているのと同次元と言えるだろう。

 会社は株主のものだという主張が我が国で世間に広まったのは、村上ファンドが“猛威”を振るっていた頃(概ねゼロ年代中頃)だと思う。
 その頃のヴィラン的な扱いからすると、こんにちのファンドのイメージは決して悪くない。だが、口にする命題が変わったわけではない。また態度の不遜さも、あいかわらずだ。実はこの問いかけそのものは、従来から社長vs従業員という軸でよく議論になっていた。だが彼らは、そういう意見に対しては、容赦のない嘲笑を浴びせかけてくる。
 「そんなことまだ言ってるの? 時代遅れもいいとこだね。
  東大卒で、ハーバードでMBAもとってて、
  ゴールドマン・サックスで働いていたこのボクが、
  これから世界の常識を教えてあげるよ」

 こういう自信たっぷりの態度を前にすると、つい怯んでしまいそうになる。しかし、彼らは別に真理の独占者ではない。自分の立場で自分の信じたいことを(そして利益につながることを)叫んでいるだけだ。
 また、彼らにとって、これは公理のようだ。議論の前提として導入した上でさまざまなシャイロック的な結論を導いてくるのだが、出発点たる命題の証明はしようとしないからだ。ただ、その公理系が現実世界と異なっていたのでは、黙って聞いているわけにもいかない。
 ずばり言ってしまおう。「会社は投資家のためにある」というのは、特定の立場に立つ人にとってのみ肯定できる命題であり、客観的に肯定できるようなものではない。社会全体の視点からは、むしろ誤謬だと言い切るべきものなのだ。肯定できるような根拠がない反面、否定されるべき根拠は存在しているからだ。
 にも関わらず、発信力の高い人たちによって、繰り返し表明されて続けている。これはもう、都市伝説と呼んでしまいたくなる。


 では否定される根拠について。このnoteにおけるぼくの立ち位置は「法学」だから、ここから論じよう。
 まず「会社は株主のもの」という主張は、端的に言えば、法システムに合致していない。会社という制度がそもそも法律によって規定されて存在できているわけだから、それと合致していなければすなわち誤りであると断じていいだろう。
 より詳しく述べよう。民法は一定の要件を備えた組織に対して「法人」という立場を与え、その構成員等から独立した別個の人格を認めている。会社もそうしたものの一つで、会社法の規定に基づいて設立登記を行うことで、法人格を備えることになる。
 それは、単独で、権利義務の主体になるということだ。だからこそ、会社が負った債務について、株主は責任を負わない。法的に別の人格、つまり赤の他人だから当然だ。そして会社はまた、株主に対して義務を負うことがある。これも、赤の他人だからということになる。両者が同一視されるものなら、そんなことは言っていられない。
 これを強く裏付けるのが、一人会社の法人格が認められるという事実だ。株主が一人しかいない株式会社というのは、現実社会にはすごくたくさん存在する。会社法がそれを認めていなかった時代でも、現実には多数存在していたほどだ。だが、その場合であっても、法人の財産や負債は、個人のそれらとは完全に切り離される。別途保証契約でも結んでいない限り、責任を負うことはないのだ。このことは、法人が別個の人格として実在することを認めない限り、法システムの中に組み込むことはできないだろう。

 では会社は誰のものなのか。その答えは実は簡単で「誰のものでもない」となる。別の言い方をすれば「会社自身のもの」ということだ。法人格が認められている以上、それは他の誰かのものとは異なる別個の人格なのだから、当然そういうことになるのだ。実際、憲法上保証される国民の権利も、性質上主張し得ないものを除けば、自然人同様に保証されている。財産権の主体になれるし、契約の当事者にもなれる。経済的自由権はもちろんだし、思想良心や言論の自由までもカバーされている。そして政治的自由権すらも認められているのは、憲法判例の示すとおりだ。
 もちろん、いなければそもそも設立すらできないわけだから、株主は会社に対して決定的な関わりを持っている。だが、しょせんは関わりのある人=ステークホルダーの一人に過ぎないのだ。社長、役員、従業員、顧客、取引先、それらと程度の違いはあれど、同じようなレベルに立っているということだ。決して超越者ではない。
 これについては、経済学者の岩井克人氏も指摘している。たとえば会社の製品を株主が勝手に持ち帰ったら、どうなるだろうか。言うまでもなく窃盗だ。会社が株主の所有に属するのならそうはならないだろう。だが、法的な扱いは件の如しで、“横領”ですらないのだ。会社と株主が「赤の他人」であることを、明瞭に示している事実だと言えるだろう。

 このように指摘すると、会社法の規定を楯に反論してくる向きもあるだろう。
 会社法では、集合体としての株主に、ほぼ絶対の権限を与えている。会社の経営方針をどうするかや具体的な経営者を誰にするかは、株主の(保有株式数としての)単純な多数決によって決められる。会社の目的をはじめとした基本ポリシーの部分も、特別多数の賛成で可能だ。また、2/3の賛成票が得られるのなら、会社を解散し、その資産を株主間で分配することすら許されている。ここから見ると、生殺与奪権を持つ絶対者のように見えてしまう。なぜそんなことが許されているのかというと、株式というのが会社のオーナーシップを分割したものだと言えるからだ。これが会社法の基本的立場になる。
 だが、会社法は、しょせんは特別法であることを忘れてはいけない。一般法としての民法があり、その秩序のもとに成立している例外規定なのだ。「会社は株主のもの」という命題が成り立つのは、あくまでも会社法というレイヤー上の話。「法人は誰のものでもない」は、その元にある民法(さらにはその基盤レイヤーである憲法)に根拠を持っているのである。表層が基盤を動かすということはない。特別法にある規定は、その規定の必要性に限定して解釈されるもので、そこから基盤に関わる解釈を左右することは許されない。


 民法学には、法人の本質論というテーマがある。法人という、多分に人工的な存在について、本質をどのように考えるべきなのかという議論で、その結論は3つの説に集約される。
 まず、法人実在説。法人は社会に実在する存在であり、実体であるとする考え方だ。独自の権利を持つのも、実体を法の枠組みで認めたということになる。これと対立するのが法人否認説。社会に実在するのはあくまでも人であり、法人などという存在は便宜上の取り決めであって、その独自性を否定するという考え方だ。そして、この両者の折衷的な立場にたつのが法人擬制説となる。権利の主体はあくまでも個々人で、ただ集まって仕事をする等の便宜のために独立した人格を擬制しているという考え方である。
 我が国での通説は実在説だが、擬制説も、発言力の高い民法学者によって主張されたことから、有力少数説として重きを置かれてきた。また、否認説の立場はマルクス主義との相性がいいため、戦後の思想スキームにおいて進歩派の心をつかむ傾向があり、それとの妥協策として擬制説が選ばれやすかったとも言える。
 ぼくも、初めて民法を勉強した学部生の頃は、擬制説に共感していた。法人実在説の考え方が、政治学の国家有機体説(国家を一つの生き物と見立てる立場。頭脳に相当する統治者が、手足に相当する一般国民に対して絶対の支配権を持つという主張につながる)を彷彿とさせ、どうにも気持ち悪く感じられたのだ。実際、滅私奉公で会社のために24時間戦うなんていう、当時としては常識的かつ若者としては絶対に否定したい価値観と直結しているようにも見える。だから、法人はしょせんはフィクションに過ぎず、特定の目的を達成するために「人格」を擬制された存在に過ぎないという、法人擬制説の立場が正しい(あるいは正しくあるべき)ものであるように思えた。
 だが、実際に社会に出てみると、法人というのが実在することは、疑いようのない事実だった。経営者も従業員もそして市場も、会社を実体として扱っている。そもそも社員のロイヤルティの対象にしても、カリスマ社長が辣腕を振るっているようならともかく、通常は会社そのものであって他の誰かではない。かつて知人になったとある三菱マンは、家電もクルマもエアコンもアルミホイルも全て三菱製で統一するような三菱愛に溢れる人(筆記具まで三菱鉛筆一本槍だったので、グループ企業じゃないことを教えてあげたが、信じてくれなかった)だったが、岩崎家が今何しているとかは気にもとめていなかった。彼にとって、三菱は三菱であるということで忠誠心の対象であり、それは他人への献身というよりは、むしろ形を変えた自己愛だったのだ。ともあれ、社会に出てから得られた観察事実がこれであり、それはもう考え方によってどうこうできるレベルではなかった
 実際、日本中の大半の会社は、存続そのものを目的に経営されている。存続するためにはお金が必要だから、当然利益も志向する。ただ「社員に給料払って、設備投資もして、顧客や取引先に喜ばれて、地域の皆様にも愛されて、そんな感じで末永く幸せにやっていきたいもんだね」というのが、大半の中小企業主の本音だ。目標として「めざせ上場」なんてのはあるが、上場した後にどうするつもりなのかと尋ねたら、返ってくる答えは「いや、上場したら社員のみんなも喜ぶだろうし、取引先との関係も良くなるし…」なんて調子で、それほど違いはなかったりする。
 人は何のために生きるのかといえば、圧倒的多数の人にとって「生きることそれ自体が目的だから」となるだろう。金を稼ぐなんてのは、手段にはなり得ても目的たり得るものではない。法人だってこのあたりは変わらないのだ。


 こう理解してみると、新たな疑問が湧いてくる。制度解釈としておかしければ観察事実にも反するのに、「会社は株主のもの」などという定立が、なぜ真顔で語り継がれているのだろうか、ということだ。
 これは一言で言えば、悪性のミームだ。実はこの言明は、ミルトン・フリードマンという経済学者が表明した「会社は、株主の利益を最大化するための装置である」という言葉に由来している。この人物は、単に優れた理論家というだけでなく、一般人に直接語りかける発信力、そして何より自分を権威付けることにも超一流の能力を持っていた。ケインズ主義に基づく経済政策が行き詰まりを見せる中、古典派経済学を再解釈した「新古典派」の論客として登場、独自の解釈を加えて大きな学派を築き上げた。その理論は新自由主義の政治的主張との親和性が高く、それを標榜する政治勢力(レーガンやサッチャーなど)が力を付けてくるのに合わせて、フリードマン派も強い影響力を持っていくことになる。
 フリードマンの理論の中心にあるのは、市場だ。「自由市場に任せていれば、長期的には全てうまくいく」というセントラルドグマがあり、これに基づいてケインズ的な経済政策を否定する。そして、具体的なマクロ経済については通貨管理を重視、通貨の供給量さえコントロールすれば、インフレも失業も全て対策できるという立場を取る。このような特徴から、マネタリストとも呼ばれている。
 学者の展開している学説が一面的な極論であることは、むしろ当然と言える。現実を抽象化するところに成立するのが学問だからだ。また、そもそも他人に注目されないことには広がりようがないという事実もある。現実に対して妥協的で、価値観も中庸、そして結論は全て常識の範囲内…なんて代物では、話題にすら上らないのだ。世間から注目されたいと思ったら、目立つことを言わないとだめ。学説の全てがそうではないが、広まっていくものについては、常識外れな極論ばかりになってしまいがちだ。近年注目された経済学説を考えてみるといい。MMTとかベーシックインカムとか、そんなのばっかりだ。そして、80年代における同じ立場にある主張が、「財政投資なんて無駄!」「規制を撤廃すれば社会は自動的に良くなる!」の類だったと言えるだろう。
 ただ、極論というのは、ある意味“ボケ”だ。相方がすかさず「何いうとんのやー!」とツッコミを入れるべきものなのだ。そして観客としては、わっはっはと笑って受け入れ、あとはその指摘に一抹の真理があることを含みおきつつ劇場を後にし、自分の現実の生活に戻っていく…という使い方がされるべきだ。ところが、本件について、相方を務めるべきだった実務家・政治家はそれをしなかった。むしろフリードマンの権威の前に沈黙あるいは迎合、ドグマを伝授された弟子たちを受け入れてしまった。
 だが、理論を絶対視する態度から生まれるのは、現実の矮小化だ。複雑でとらえどころがない現実という対象を、あたかも単純に割り切れるものであるように勘違いしてしまうのである。マネタリストの経済学者たちは世界中に散らばり、経済学の教職につき、投資家の顧問となり、投資銀行や大手ファームでコンサルティングを行い、さらにはIMFや世界銀行などの国際機関の専門員として職に就くことになる。これはかなりの不幸だ。言ってみれば、「牛は球体」と思い込んでいる人たちが、世界中で牛舎の設計と運営を監督するようなものだから。実際、根本的に間違った経済指導で傷口を広げられた国家や団体は、枚挙にいとまがない。

 フリードマンの流儀が浸透した理由は、そのわかりやすさにあるだろう。ぼくも実は青年期に信奉していた(法学部に入る前、2年だけ商学部にいて経済原論のゼミに属していた)。その主張は明解で、直観的理解にも合致する。その頃の経済学はまだケインズ主義に勢いがあったのだが、そちらの理論はどうにも「煙に巻く」感があって、しかも「赤字財政で公共投資を行えば景気は良くなる」みたいな、常識的に納得のいかない結論が多い。反論しても「じゃあ君、これの間違っている点を指摘できる?」と高等数学の数式を指さしてせせら笑ってくるような、そんなイメージがある。そこへいくと、「自由にすれば全てが自動的に良くなる!」と来るわけで、実に明解だ。このあたりの共感は、ぼくよりもう一・二世代上の人がマルクス主義に共感したのと通じるものだろうか。だが、どのような“主義”であれ、それは必ずカリカチュアされたものであることを忘れてはいけない。

 ともあれ、先述のようにフリードマンの弟子たちは要職に就き、様々なドグマを再生産していった。「会社は株主のもの」という命題も、そうしたドグマがミームとなって広がっていったものだ。当論で対象に取り上げている投資家たちも、感染者として自らが染まり、さらに他人へ伝染させている立場である。この現象を一歩離れた視点から見れば、世界は一つのフィクションに蝕ばまれていったと総括できるだろう。とはいえ、これは別に“敵対国を弱体化させようとする、アメリカ帝国の陰謀”ではない。というのも、他ならぬアメリカ自身が、最も大きく蝕まれているからだ。
 アメリカという国は、20世紀の大半の時期において、豊かさの象徴だった。その根本にあるのは、パワフルな民間企業の存在だ。一介の青年が画期的な製品や生産プロセスを発明、市井の人から一躍産業界の大立者にのし上がるなんて構図は、決してフィクションではなかった。フォードやボーイングなど、その中心にあるのは製造業だが、サービス業であっても例外ではない。新しいサービスを見つけ出し、あるいは改良していくことで、会社自身と社会におけるプレゼンスを高めていったのだ。
 このとき見逃してはいけないのは、そうした活動を通じて形成されていった無形資産が、会社には大量に蓄積されているということだ。
 たとえばフォードの下に集まった人材は、経営から製造に至る様々な部分で継続して改良を行い、ノウハウや仕事の精度を蓄積していく。それらがあるからこそ、フォードはよりエクセレントな仕事をすることができる。同時に、彼らは自らの帰属先への愛着も持ち、それは会社を離れての活動にも反映される。一方社会には、フォードへの期待が蓄積されていく。商品の所有者が持つ信頼感やステイタス感、そして未購入層の「いつかは手にしたい」という憧れだ。こうした無形の価値の大半は、帳簿にこそ乗らないものの、フォードの持つ大きな財産と言える。
 だが、ここに件の投資家が乗り込んできたことで、成長のスパイラルは破壊されていく。彼らは「俺達の利益だけを考えろ!」と経営者に突きつけ、その方法として、会社の削り取りを要求した。
 一つの例として、GEことジェネラル・エレクトリック社が上げられるだろう。発明王エジソンに由来する、電気関係を祖業とする会社だが、創業者のマルチな活動範囲を反映してか、製造業の枠すら超えた極めて多彩な事業分野を持ち、70~80年代には25~30万人の従業員を擁する巨大企業となっていた。ところが、ある時、ワンマン的な経営者が投資家たちの要求を受け入れたことで、事態は一変する。「シェア2位未満の事業は、黒字であっても整理する」という方針が導入され、次々と事業が切り取られていった。それは祖業部分も例外ではない。まずはコンピュータ、ついで家電、そして重電の多くの事業も売却し、結局、ジェネラルでもエレクトリックでもない会社になってしまったのだ。
 このような、本末転倒な経営判断がなぜ行われるのか。それは会社に“短期的利益”をもたらすからだ。先述の通り、会社には無形の資産が蓄積されている。会社そのものを切り取っていけば当然それらも失っていくのだから、そこで得られる対価は資産を喪失する代償に過ぎない。だが、それらの無形資産はバランスシートには書かれていないので、失っても損失には記載されない。あたかも利益が出たかのように見えてしまうのだ。
 先述の三菱マンのような人なら、首を縦にふることはないだろう。だが、アメリカの主流はプロ経営者で、短期的利益を上げることで巨額の報酬が得られる、そういう形でインセンティブを与えられている人だ。その意味で、投資家たちとは共犯関係に陥りやすいと言えるだろう(もっとも、先述のGEの削り売りをしたのは、アメリカには珍しい生え抜きの経営者だったが)。

 こうした例と比べると、日本企業の多くは健全だ。たとえばトヨタ自動車は、トヨタ自動車自身のために活動している。「いいクルマを作って売ることで、お客さんにも喜んでもらえるし、社員も豊かに暮らしていける。資金を出してくれた株主さんにだって配当できる。そして儲けたお金を再投資して技術革新を進めれば、そんな活動を継続できるだろう。そうやって、未来に向けて会社を回して、世の中の“しあわせ”を増やしていこう」とは、有価証券報告書にも他のどこにも書いていないが、まあトヨタという会社を知る者なら誰でも納得する真の存在目的だ。誰のためかと言えばみんなのためで、特定の誰かのためではない。
 だが、これが投資家たちの手にかかったらどうなるだろうか。
 「従業員などコストだ、工員に高給を払うのをやめろ!
  終身雇用の慣習も株主の利益を損ねるからやめてしまえ。
  いや、それ以前に工場など持つ必要がない、
  会社は開発と設計までやっとけばいいのだ。
  製造など、海外企業にアウトソーシングしてしまえ!
  そして開発や設計も、日本国内でやるな、
  法人税のかからないアイルランドあたりに移転しろ!」

 こんな助言に対し、社長がなるほどと膝を打っていたら、愛知県などという土地の存在意義は三河湾の底に沈み、ぼくがこうして名古屋で生計を立てながら小文をしたためていることもなかったはずだ。だが実際の歴代社長がやったのは、「いや貴重な話を聞かせていただきありがとうございました」と丁重に送り出すことだけだったのだろう(塩ぐらいは撒いたかもしれない)。感謝しなければならない。
 しかし、そんな日本企業も、今やプロ経営者たちが跋扈するようになっている。法制度もそれを支えるように動いた。2003年には「委員会設置会社」という、取締役会から独立した経営者が即断即決で経営判断のできるスキームが用意された。この仕組みは、2015年の大改正で「指名委員会等設置会社」と名を変え続いている。また、このときの改正は株式会社の制度設計について極めて多彩な選択肢を与えるために行われた。ガバナンスを国際的水準にするために導入されたものだが、「誰のために」「何のために」の部分において間違った選択をしてしまったのでは、良い結果が得られるはずはない。
 環境の変化は人を不安にさせる。また、長引く不況や市場の混迷などから、不安が社会を長く覆ってもいる、そんな時代を反映して大小さまざまな“預言者”が現れ、啓蒙しているつもりで間違った命題を発信し続けている。
 油断はできない、そう言わざるを得ない状況なのだ。


 以上、長い話になった。
 途中、どうも経済学をディスったように読めてしまう文章になってしまい、実際書きながら知人の経済学者の顔がちらほら浮かんできたりして困惑したりもしたのだが、当然ながらそういう意図ではない(フリードマンに対して好意的でないことは認めるが)。そもそも話の主眼は「会社は誰のものか」ということだったので、最後にこれを要約しておこう。

 1 社会において法人は実体であり、それ自身のために存在している
 2 上記の事実を法秩序のもとに位置づけるべく法システムは存在する。
   会社もまたそうして法システムで規定された法人の一つだから、
   特定の誰かの所有物とみなせるものではない
 3 会社の持ち主をあえて言うなら、会社自身以外にない。
   株主も、経営者・従業員・取引先などと同様、
   自身の立場において関係するステークホルダーの一人に過ぎない。

 では、「会社は株主のもの」という命題は、ナンセンスなものなのだろうか。
 これも、アンチテーゼとしては十分存在意義のある言明だ。実際、村上ファンド以前の日本の会社には、ここを勘違いし、「ワシが作った会社だからワシのものだ!」と思っているような輩が多かった。登記上は会社所有になっている豪邸に住み、同じく会社所有として登録している高級車を妻や息子に与えて平然としているような経営者が、あたりまえのようにいた。そして、株主に期待する役割は「黙って金を持ってくる」で、経営に口出しされることを嫌い、ときには反社会勢力まで雇って黙らせた。ただ、そういう経営者が消え去ってしまえば、もうアンチテーゼは不要だ。狡兎が死んでいるのに、いつまでも走狗を走り回らせていてはいけないのだ。
 ようは使い場所ということだろう。どのような優れた言明であっても、文脈から離れて使われるべきではない。これは経済学者の理論にも言えることだ。理論というのは、抽象化を突き詰めたところに生まれる。それを念頭に置いて現実を動かすのは、実務家の仕事だ。理論をそのまま使ったらうまく動かなかったからといって、理論家を責めるのは―その理論家自身が現実の領域にしゃしゃり出てきたのでない限り―筋が違っている。

 まあ、ぼくがここでこんな表明をしたところで、投資家たちの発信は変わらないだろう。だから、この小文を読んだあなたが注意するしかない。今後、投資家の「会社は株主のもの」発言を見たら、彼らがシャイロックだということを思い出そう。
 そして、あわせてこんなイメージを。
  「これ、ぼくのものだって、君が言ってたよね」
 なんて言いながら、ジュリエットから肉を切り裂いていく血まみれのロメオ、そんな姿を想起するといいと思う。

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