集団心理とサンクチュアリ
誰にでも逃げ場所というのがある。
それは人だったり、場所だったり、記憶だったりする。
私にとってそれはいつの時も図書室や図書館だった。
小学生の頃は遊ぼうと探しにくる友人から逃げるため、机の下に隠れて本を読んだ。中学高校の時は流行のドラマや漫画の話から逃れるため図書室に行った。
学校の図書室は常に仄暗く、本好きのもう一人の同級生しかいなかった。
自分は幸いたくさんの友人に恵まれていたけど、その他大勢の一人でいる時間とは別に、唯一の自分に戻れる時間と場所が必要だった。
ずっと大勢でいると、集団心理が自分の価値観を侵食してくる気がした。
みんなで見てるドラマや好きな曲の話は面白いけど、それは「今」を形成している一つでしかない。それなのに、みんなで共有すると「正義」になり、他を排除しようとしてしまう。その感じが怖かった。
そういった力が、物事の意味や事実をねじ曲げるのを目の当たりにしたのは
「同情するなら金をくれ」というセリフが有名なドラマが放送された時だ。
その当時、私はドラマの意味がやっとわかるくらいの年だったけど、あのドラマが流行ってから「同情」は使いにくい言葉になってしまった。
ただ奇妙なことに「同情」という言葉から逃れようとするわりには、人々はあいも変わらず「同情」を求めて自分に起こった不幸や不満を積極的に語っていた。人々は「同情」という言葉の解像度をあげようともせず、響きだけに過剰反応するから意図せず矛盾した行動をとっているのでは、と訝っている。
学校の小さな図書室には流行の本はあまりなかったが、海外文学や歴史書が多く取り揃えられていた。そこで女性天文学者ヒュパティアや、ルイ17世、フェルセンについて書かれた本を読んだ。彼らは激動の時代に悪意を増幅させた民衆に殺されてしまった。それは私に「同情」の言葉の正しい意味が失われた出来事を思い起こさせるのだった。
「近くにいるから喧嘩するのよ」と
母は度々、弟と私に言った。
仲が良くて近い距離にいるから、考えを押し付けるようになるし、自分と同じ考えじゃないことに腹が立ってしまうんだから、と。それは真理だなと今も思う。
二極化思考というのがあるが情報に対して善か悪か選ぶだけなら知識がなくても選べて手軽だ。みんなと同じ考えに乗っかっていれば安心して「その他」を排除し、お手軽に自己満足を得られるだろう。でもお手軽にくだした判断に責任を取る気概ははなく、非常に身勝手になりやすい。
私は弱い人間だから一度あっち側に行ってしまったら、きっと戻れない。
だから群衆という私を取り込もうとする見えない力からのがれるように
今日も図書室(本)という聖域に逃げ込むのである📚