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「ショック・ドクトリン」「地域主権主義(ミュニシパリズム)」から学ぶ当たり前のこと

好きなTV番組のひとつ「100分de名著」が6月に扱ったのは「ショック・ドクトリン」だった。以前から何となく興味を持っていた本だが、上下巻で700頁に及ぶため尻込みをしていたが、番組と並行して読むことで理解も進む良い機会と考え購入した。

これが抜群に面白かった!著者はカナダ出身のジャーナリストであり政治活動家のナオミ・クライン。「ショック・ドクトリン」とは、1970年代に経済学者ミルトン・フリードマンが提唱した、徹底的に市場原理を導入する「新自由主義」を理論的背景として、フリードマンの弟子たち=“シカゴ・ボーイズ”によって世界中を席巻して来た惨事便乗型資本主義を指す。

その手口はこうだ。戦争・紛争やハリケーン、津波といったある国の混乱(ショック)に乗じ、国家権力に取り入り、「規制緩和、公的予算・サービスの削減・縮小、公的サービスの民営化」の3点セットによる経済改革を一気に断行することでアメリカを中心とする多国籍企業を呼び込む一方、混乱する国民を殺害・迫害して国を支配する手法である。「新自由主義の正体」を、豊富な事例、膨大な情報とデータによって淡々と立証し、説得力十分だ。そして、その手法が捕虜の思考能力を奪う拷問と共通すると述べ、慄然とさせる。

その歴史は、1973年のチリに始まり、サッチャー政権下のイギリス、鄧小平政権下の天安門事件、ソビエト連邦の崩壊などを経て、遂に2001年の同時多発テロ事件によってブッシュ政権がアメリカに導入。その後もイラク戦争、スマトラ沖地震やハリケーン・カトリーナなどおびただしい数に上る。そのいずれの事例でも、極度な経済格差や失業者の急増とそれに反比例する欧米多国籍企業の飛躍的成長が起こっている。

「100分de名著」で同著の解説を行ったのは、国際ジャーナリストの堤未果氏。そのわかりやすい解説に魅かれ、同氏の著書でベストセラーにもなっている「堤未果のショック・ドクトリン」にも目を通した。

そこでは、マイナンバーや新型コロナ感染対策、そして東日本大震災などで日本政府がいかに「やりたい放題」で市場原理を導入しているか、それが国民の生活をいかに危険にさらしているかを説いている。しかし、ここで、私にはある違和感が湧いて来た(その内容は後述)。

そして、ナオミ・クライン版も堤版も、ともにショック・ドクトリンへの解決策として挙げているのが地方主権主義(ミニュシパリズム)という考え方だ。この考えに興味を持ち、私はさらに「地域主権という希望」という本を手に取った。

著者は、岸本聡子氏。アムステルダムを本拠地とするシンクタンクNGO「トランスナショナル研究所(TNI)」に所属した後、昨年、杉並区初の女性区長となった人だ。同著では、地域主権主義(ミュニシパリズム)について、欧州での活動を通じて得た豊富な情報をもとにわかりやすく解き明かされている。

このちょっと舌がこんがらかりそうな(笑)“ミュニシパリズム”とは何か。同著の中ではこう定義されている。

「ミュニシパリズムの自治体は『利潤と市場の法則よりも市民を優先する』という共通の規範を共有している。その意味は、社会的権利のために政治課題の優先順位を決めること、新自由主義を脱却して公益とコモンズの価値を中心におくことである」(ナポリの市議 エラアノラ・デ・マヨの言葉より)

この潮流の主なエリアはバルセロナ(スペイン)、ナポリ(イタリア)、グルノーブル(フランス)などの欧州だ。「新自由主義イデオロギーのもとで、EUや多くのEU加盟国の中央政府はますます国際競争を激化させ、多国籍企業の投資を促すルールづくりに執心し、国民は置き去りにされている感が強い」「近年の極右の台頭、新自由主義による格差に拡大、既存の左派政党の転落、気候変動(+移民の流入)といった複合危機のなかで、この聞きなれない言葉が、確かな希望として急成長している。」(以上「地域主権という希望」より)

ショック・ドクトリンやミュニシパリズムといった知識を持つことで、見過ごしてしまいそうな出来事への感度が高まる。例えば、大きな批判を浴びている神宮外苑の再開発計画をはじめ、「政治家が決めたことを変えられない日本の政治は動脈硬化を起こしている」と思って来たが、その背後には新自由主義的なシステムが働いているのかもしれない。

あるいは、私たちはともすれば政治というメガネで世界を捉えてしまうが、政治と経済、国家と企業というセットにした時、全く異なる世界の姿が見えて来る。

その一方、「堤未果のショック・ドクトリン」を読んだ違和感は、やや扇情的に国や企業を性悪説で語っていることである。最近のマイナンバー騒動に代表されるように、事実そのように思われても仕方がないのも確かだ。しかし、自分が生まれ育って来た国家を信じられないものと思ってしまうことにも悲しさを感じるのは、感傷的に過ぎるだろうか。

むしろ、いま必要とされているのは、一人ひとりが「国とは何か、企業とは何か」その存在価値を自分ゴトとして、あるいは多角的な視点で改めて考えることのような気がする。地域主権主義(ミュニシパリズム)も、言い換えれば憲法の冒頭(前文と第1条)で定められているような「国民主権」の意識を一人ひとりが持つことから始まる。

そして、新自由主義、ショック・ドクトリン、ミュニシパリズム、災害、気候変動、戦争、貧困、地域主権主義、感染症、ケアの思想、フェミニズム・・・・それらは個別の事象ではなく、相互に関連している俯瞰した視点を持つことも、ますます必要とされる。一見無関係に見える「あの出来事」
と「あの出来事」は、実は相互に関係しているかもしれない。

ますます複雑化する社会や世界の中で、次々と起こる出来事はもはや他人事では済まされない。知識を深め、感度を高め、自分のアタマで考えなければ身を守れない。そんな当たり前のことを、改めて感じている。その先に社会をより良いものにするために「声を上げる、行動する」ことも必要なのだ。このまま傍観者に留まっていて良いのだろうか・・・という“むずがゆさ”も感じ始めている。

#ショック・ドクトリン #ミュニシパリズム #地域主権主義 #新自由主義

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