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文化を感じるということ-7

丹後ちりめんの織元を訪ねる

僕が住む秩父から飯能、入間に至るエリアはかつて養蚕が産業の中心にあり、人口の七割が絹に関わっていたと言われている。古代より“知々夫絹(ちちぶきぬ)”という白絹が生産(朝廷への献上品としての貴重なものだったとか)されていたり、奥秩父あたりでは養蚕と絹織物が盛んで、小鹿野や横瀬ほかの広範囲に大規模な機業地がありました。

同様に飯能・入間でも千三百年以上前の古くから絹織物の産地で特に裏絹は、高麗人の若光王によって伝えられ、高麗の織法で生絹を製織し高麗絹の名で知られたと文献にあります。(高麗という地名も残っていて、高麗からの伝来云々については今も各所に残っています)。
江戸時代中期になると生絹が染色加工や練糸を用いた織法などに改良が加えられ幕末頃には“飯能絹”として全国に広まったようです。飯能絹は半世紀ほど前に“飯能大島紬”としてブランド化がされたので、今ではそちらの名称を言った方がご存知の方が多いかもしれません。
何れにせよ、相当規模の産業として地域を支えてきたわけですが、残念ながら現在は飯能・入間地域では一軒も残すことなく姿を消しました。唯一商いとして絹織物を手掛けていた“店蔵絹甚”だけが明治中期の土蔵建築をそのままの形で残すのみで、ここも保存会が管理をし、見学と催事、例えば雛祭りだったりの展示がされる程度でしか活用されていません。

さて、今回訪ねる丹後ちりめん・織元たゆう(田勇機業)は今も一大産地丹後を支える織元であり、撚糸から織り、染めなど全てを一貫して生産している数少ない会社のひとつです。
ご存知の通り、京丹後は丹後ちりめんをはじめ織物生産の一大集積地です。
最盛期は二千万反を超える生産量を誇りましたが、今ではその百分の一ほどの規模になっており、更にコロナ禍にはその半分ほどにまで生産量を落としました。その後少しばかり回復傾向が見られたものの、十数万反ほどの生産量に留まっているという話をたゆうの田茂井さんに聞きました。
この辺りを少し調べてみると、直近令和四年の資料(公益財団法人 京都産業21北部支援センター|令和4年度[丹後織物業の景況・動向調査]報告書)では、丹後織物全体で二十一万反ほどで、丹後ちりめんに限ると十六万反ほどを生産しているようです。
企業数もたゆうのように一貫生産の会社は三社にまで減ったものの事業として相当苦しくなったのは明らかでしょう。まあ、我々の生活の中心に和服がこれほど減れば・・頷けるというものです。
かく言う僕も“洋服”を着ているわけですが・・和服で過ごそうかしら。。

たゆうの工場を田茂井さんの解説付きでご案内頂きました。
久々にワクワクする工場を拝見でき、終始ご機嫌です(笑
養蚕で蚕がつくり出した繭玉を手間暇をかけて糸にし、それをさらに数百の束にし巻き取り、横糸には一メートルに数千回の“より”を掛ける、まさに丹後ちりめんたらしめる重要な工程があったり、縦糸もまた違った製法でつくられ、縦横の糸が織られ完成するまでの“プロセス”にこそ最大の価値のあるわけです。(完成品が素晴らしいとか重要なものであることは言うまでもありません。)
この製造風景とセットでどう世に問うかを改めて再考したいと思いながら拝見していました。

絹糸が束ねられ一つの“糸”として巻き取られる様は圧巻

工場にはプログラミングでのデジタル・ジャカードやパンチ穴によるアナログ・ジャカード織機などが稼働していて、それぞれ小気味よい独特の音をたてながら稼働していますが、非常に心地の良い感覚を覚えますが、田茂井さん曰く、大昔の柄物はこのような便利で簡単に柄を織れる機械などなかったので、柄を織る作業も人がやっていた、と。多分ここで稼働している自動機並みの精度で動く頭とそれを再現する手をもった職人さんが超絶技巧でつくっていたのだろうと想像します。その技術や職人はもう残っていない、いらっしゃらないのでしょうか。そこがもし継承されていて技術や職人がいるのなら、ぜひこの目で見てみたいものです。

たゆうは自社のショップもやっています。
オリジナルプロダクトも並んでいますが、ここは僕もプロダクトデザインをやっていたりするわけで、何かできることがいっぱいあるなと眺めておりました。
先程紹介した織物生産の資料の中にオンラインショップや直営店舗の占める割合などと言うものが出ていましたが、所詮は現在でも1%ほどと小さく、むしろここに案外面白い仕掛けを持ち込めるのではないかと、ひとりニヤついてしまいました(笑

工場見学も終わり、実はもうひとつ楽しみにしていたのは、重森三玲の庭です。
“蓬仙寿の庭”は常套な枯山水の庭、数ある重森三玲の庭に通づるもので、ここは建築もまた設計されたのだとか。
いや、これもまた良きものを見ることが出来ましたが、何より田勇機業の先代がこういう文化・芸術振興に対してもしっかりと手を出し、保存し続けていることに敬服します。今の現代にこれをやる大粒の大人は激減しましたが、今こそ改めてこう言うものを次、またその次の世紀に残るものとして創造せねばならないのではないかと強く思います。

重森三玲による建築と庭
重森三玲 策定による“蓬仙寿の庭”

今回の見学は単に工場見学ではなく京丹後の産業、人と出会い、その中で育まれてきた色々を垣間見る良き機会でした。

蓬仙寿の庭をご覧になった後には是非、左京区にある重森三玲庭園美術館も訪ねてみてください。今回は定休日に重なりその願いは叶いませんが・・

何百年と受け継がれてきた丹後ちりめん、その前の諸々も含め、これからを考える良き機会でもありました。
皆さんも、是非足を運ばれ、丹後ちりめんの世界を覗かれて見てください。

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