フィジカルとデジタルの狭間、ヘイト
青木淳×藤本壮介 立春建築放談
って9年前に青森県立美術館で開催された記録映像を見ながら・・
ふむふむ、こういうことをXRの世界で多様に体験できる未来ってのは確かに面白いなと思ったが、今のXRは窮屈で退屈。
面白くない画一的なアイディアしかない。いや、恐らくこの類の諸々に嗅覚の鋭い“目利き”的な人材が引っ張ってないからと言う問題しか、思い当たらない。
昨今の“LGBTQQIAAPPO2S”と言うもはや大多数が理解不能な何かの暗号かと思うような言葉に関連した問題にて(問題にするほどのものでもない)、重箱の隅の突き合いの首相及びその周辺での諸々に、G7から“おたくの国だけが許容されていない”と外野から意味不明な強要され、日本国内の大衆はそれにも迎合するカタチなのかは知らぬが、両者、敵か身方かをはっきりさせた上で不毛の戦闘を繰り広げる。
敵か身方かは、非常に曖昧で双方、何方にも転じるふわついたものであってこそ面白いし、昨日の敵が今日の身方になり、明日また敵になって激しく入れ替わりながら善悪も曖昧、それでこそ面白い世の中ではないかと僕は思っている。
ヒトの表層ばかり見たり、またそればかり出してお利口さん、良い子ぶったところで所詮そう遠くないところで本性がバレるというもの。
ならば最初から両方兼ね備えてます、が窮屈にならずに済むとは思わんか?とね。
どうもお国を超えての統一世界構築に奔走されている時代にあっては、実はXRの多様な活用も同じ流れで外野からああだのこうだのと在らぬ言いがかりレベルの突き上げもあるのだろうから、前述の未来は描き辛い悲しい状況にうんざりするが、それもまた我々がどうこうできる問題ではなく、社会が決める風潮に由来するのだから、流れに身を任せる以外になさそうであるが故の歯痒さが許容できるか否かって話に尽きるのだろう。
先般、あるところで問いかけた“生活と仕事”の諸々における京丹後の職人と京都市内の職人の全てを手の届くところから調達しそれを加工し、手の届くところに渡すに対し、あらゆるところから調達し、大量に有象無象にばら撒く手法の限界を迎えつつある世界にさて、どちらが在り方や進むべき方向のよりよき解なのかを考えるところの各所の間にある問題を興味深く深堀していった先に本源を見抜いたそれが、恐らく世界中の何事にも底通している問題である。
今日は春と見紛う陽気。
開口という開口の全てを開け放ち、空気の入れ替え・・気持ちが良い反面、花粉の魔の手が襲いつつある今日この頃。。
皆さんは如何お過ごしでしょう?