何をするにも遅すぎることはないのだ
先日のカウンセリングで学生の頃に好きだったことについての話題になった。
90年代後半に中高生だった私の好きだったことはもちろん音楽を聴くこと。
特にSMAPとKinKi Kidsのドラマ、バラエティ、音楽を見たり聞いたりすることが大好きだった。
でも推しの話ではなくて、私はとても気になっていたことについて話してみた。
それは、ごくたまに、自分が書いた作文が評価されていたということだ。
例えば
小学2年の時、家で初めて作った料理について書いた作文が校誌に載った。
高校生の時にも将来の夢について書いた作文が校誌に載った。
そして大学生の頃、ボランティア活動の意義についての投稿が新聞に載った。
小学校低学年で文章を書くことに楽しさを見いだしてからしばらくして、私は進学塾の入塾テストで読解力が低いことを知った。
そこから母親の攻撃が始まった。
女は国語ができなきゃ恥ずかしい。
女だから。遺伝だから。あんたがA型だから。
そんなことで色々な問題を片付けるような母親だった。
私は国語ができない人間だと思い込むようになった。
塾での作文コンテストは母親が決めた題材と書き出しで書かされた。もちろん結果は✕。
断っておくが、母親は被害妄想の激しい地方の短大を出ただけの女である。
付け加えると私から見ても国語力、想像力がないので一から十まで説明しないと理解しようとしないしできない。
滑り止めの女子校に入学してから、母親の管理がきつくなり、私の日記を見たり、帰宅後の私の鞄を開けて中身の確認をされたりした。それが毎日続いた。
プライバシーの侵害だと訴えたが鼻で笑われた。
そして私は勉強をやめた。それが唯一の反抗だった。(愚かなのは分かっている。)
当時の日記は母親への罵詈雑言集、中居くんや光一くんの偏愛日記というものすごい感情の歪んだものになっていた。
そのまま高校へ上がり、高校の進路選択では理系を選んだ。
というのも、当時は本を読むのが苦手だったからだ。
それに文系には超がつくほど嫌いだった歴史の授業があり、数学は苦手だけど化学の勉強がしたいという超絶ワガママな理由で理系を選んだ。
理系クラスを選んだにも関わらず、数学もほとんどついていけず病みはじめて、気づけば作詩をしたり物語を創作したりして勉強から逃げていた。
そしてある時、創立記念日に向けて作成された校誌に将来の夢についての私の作文が載った。
内容は、悩みや苦しみを友人と乗り越え、それでも叶えたいと思う、といういかにも教師が好きそうな中身だったと思う。
内容がウソといえばウソになる。私にはそんな友人いなかったのだから。
叶えたい夢なんて、持っていなかったのだから。
小学校、高校と校誌に二度、作文が載ったことと最終的な進路について話すと、カウンセラーの先生は言った。
「物書きの仕事は興味なかったの?」
当時の私ならなんて答えただろう。
人見知りでコミュ障だった私は思ったこと、想像したことを言語化する能力が低いと感じていた。自己評価の低さから物書きの世界へは進まなかった。
物書きは不安定だから。
好きなことを仕事にはしない方がいいと聞いたからと、言い訳して。
最終的な進路は栄養学にするか、心理学にするかで迷い、結局両方学べる家政学部の保育科に進んだ。
大学生になって、ボランティアサークルに加入した私は、子どもたちと積極的に関わっていた。保育の勉強やボランティアをしながら、そこで子どもたちと関わることで心のままに表現することの大切さを教わった。
ボランティアに夢中になっていたある日、私は新聞の中でボランティアに対する批判的な投稿を見つけた。
そこで私はボランティアについて私が思うことについて投書してみた。
ボランティアにも保育、介護、自然保護と様々な分野があることやボランティアをすることによって成長できたこと、分かったことなどを書いた。
すると数日後、新聞社から電話があり、投書が載ることになった。
添削されて中身は少し違ったものになってしまったが、老若男女、全世代が理解できる文章を書くというのは難しいなと勉強になった。
自分の思いを素直に書いただけの投書。
素直な気持ちをそのまま表現すればそれを受け取ってくれる人が必ずいるのだ。
もう遅い
これは母親の口癖である。
私も受験、進路選択、会社選び、全てそう感じて生きてきた。
学生の頃の日記の内容は暗いから読み返したくないし、作ってた詩も心の内を曝け出してるから見せられたもんじゃない。
だけど、それでも私は文章を書くことをやめたくない。
今はブログがあり、Xがあり、noteがある。
理系出身の作家さんもたくさんいる。
始めたその日が一番若いのだ。いまからでも自分のことについて発信するのは遅くないと、私は思っている。