記憶の出典不明

「あれ、この話誰の何の文章で読んだんだっけ」
個人的あるある。

国語の先生という立場上、年間かなりの量の文章に触れるのだが、触れ方がちょっと特殊だ。入試の文章題は一冊の本の一部分を切り取ったものであるから、「色んな本の一部」だけをたくさん読むこととなる。入試の問題を読んで、前後が気になって実際に購入した本もある。野谷茂樹さんの「語りえぬものを語る」もそのひとつなのだが、僕が読んだ本の中でも指折りのお気に入りである。

色んな本の一部を多量に読むのは、一長一短だ。端的に言えば、「浅く広く」になるのだ。

通常本を読むよりも早いサイクルで読めるため、色んな人の作品に触れられる。幅広い分野の話を、さまざまな視点からの話を、読むことができる。これはNICE。
しかし、一部しか読まない以上、「深み」は失われてしまう。だが、その点は気になった文章や話題を、自分で深掘りするようにすれば、大した問題にはならないだろう。

僕がそれ以上に「よろしくないな」と感じているのが、「誰の何の文章で読んだ知識なのか」思い出しにくい、ということなのだ。
これ、とても悲しいことだし、ある種無責任な気もする。メモするようにはしているのだが、いかんせん読む量が多量である。メモも膨大なものになり、検索性皆無の無能メモ帳が生まれる。困ったこっちゃ。どうすればいいのだろう。

最近、「ありのままの自分を認めてもらおう、愛してもらおうなんておこがましい、ワガママでしょ。」という趣旨の文章を思い出したのだが、出典が不明である。くそう。読みながら、めっちゃ共感したんだよな。「相手に認めてもらうには、努力しないとそりゃダメっしょ。」なかなか痛烈な主張だ。ワガママというのは甘えなワケで、関係によってはある程度は相手に甘えてもいいとは思うけども。自分の心構えとして、持っておきたい考えだ。

試しに色々なキーワードで検索したのだが、残念ながら女性向け恋愛指南ブログしか出てこなかった。絶対に出典はコレじゃない。ただ、同じような内容を述べていて、結構共感した自分がいた。なんか悔しいな。

気になる方は、「ありのままの自分を愛してもらう ワガママ」で検索検索〜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?