僕には「愛」の目が盲目である
こんにちは、石川雄一です。
今回話すことは私は「愛」の目が見えないことを学んだことについて
三つに分けて話していこうと思います。
それではいきましょう。
一つ目はなぜ僕は「愛」に対して盲目と言える理由について話します。
僕は何か身近な人が愛しているよと言っても、その言葉には裏があるんじゃないか?何か損得が絡んでいるのではないかと疑ってしまうから「愛」に対して盲目と言えてしまいます。親切な人が表裏なくいっても僕は他人そのものではないから、100%信用することができないですし、僕自身が人をいじめたり、人にいじめられたり、また人に助けてもらったり、助けたりしました。で、そのいじめる側の心はいじめる自覚がないと思います。僕自身がそうであったし、多分、僕を悪意を持ってからかう奴はその自覚がないと思います。親切な人は過去に固執するな、今を考えろと言います。そのお気持ちはよくわかります。けど、一度ついた傷は回復しない気がするんです…。
でも、一つ言えるのは自分は疑うことしかできないがために親切な人を疑ってしまって、親切な人にはすまない気持ちでいっぱいです。
二つ目は僕はデータでとらえることができるものしか信じることができないことです。なぜ、そう言えるのかと言いますと先ほどの「愛」に対して盲目であるのはまた「愛」はデータでは表現できないため理解ができないし、暗黙の了解やみんなの雰囲気に頑張っても頑張ってもいつも初見だから対策ができないし、それがために感情を忌み嫌う。だから、形になって分かりやすい金や文書化されたルールや権力さえあればいいと思えてしまうし、損得関係のほうが単純かつ分かりやすいと思えてしまう。本当に感情や心って何なんだろうな?それがある意味私にとって一番難しい問題かもしれない。
三つ目は見えないものが見える人はぜひとも、誇りに持ってほしいという見えないものが見えない人からの激励です。だってさ、その暗黙って奴って人が人として活動している時から気が付いたら成立しました、みたいな感じだと思うんですよ…。そんな人の理が本能的にわかるなんて羨ましいよ、
だから、発達障害ってその見えないものかつ人の掟が見えないがために社会を乱す、いわば突然変異体だと思っています。だから健常者さんはそのことを誇りに思って僕のような気違いが理解できない人の気持ちを楽しんでいってほしいです!
以上で私の話を終わります。
※この話は僕の感覚で語っています
#最近の学び