「農業」フードロスや農産物ネット直販を考える~ゼロ和のジレンマ~前編

まず、小生の拙いnoteをクリックして頂いた事に感謝申し上げます。

本日はコロナ渦の中で注目されたフードロスや農産物のネット販売について思うことをつらつらと書いてみたいと思う。

生産側のロス

さて、ロスとはどの時点のことを指していうのであろうか。

分解して考えみた。

生産側のロスは畑で廃棄されることがまず頭に浮かぶ。次に出荷調整の時点だ。畑で廃棄される場合は主に二つ病害虫や形が酷くて放棄される場合と価格暴落による価格調整の場合だ。

前者は多数の消費者が「食べる物」と評価しないのであるのだから致し方ないと考える。変色や虫の食害痕のあるものは一部の消費者を除いてお金を出してくれないのだから致し方ないと思う。また、これの責任は天災を除いて生産者に100%責任がある。しかし、ほとんどの既存農家が生活できている現状を鑑みるに、この部分は多数の農家が技術や経験、農薬等の資材の活用により解決しているロスの範疇であるといえると思う。

後者の価格調整による廃棄はどんなに綺麗な品物であろうと出荷経費の方が売上を上回る可能性がある為に行われる。また、価格維持の為に供給を制限する苦肉の策である。この場合も責任は供給のタイミングを見誤った生産側に問題がある。需要の数を読み違えて作付けしたのだから生産側の責任である。

ジレンマ1

さて、タイトルにつけたゼロ和のジレンマのひとつを投げかけてみたい。安くて農家が大変です助けて下さい!や病気や虫の害、奇形のわけあり品を売っている姿をみて、あなたが助けたい、救いたいと購入したとする。さて、一体誰が救われるのであろうか。例えばネット上で目に付いた、わけありレタスAを購入したとする。するとあなたはその日スーパーの買い物でレタスBはまず買わないだろう。レタスAを買った分、レタスBは売れ残るのだ。世の中で売買されたレタスの総数は結局変わらないのだ。もしくはレタスAを買った分、他の野菜を買わないのかもしれない。残るのは目に見えた「助けた」という自己満足だけなのかもしれない。小生は手間暇をかけ鮮度や形等の品質を維持したレタスBの生産者にもたまには思いをはせてもらいたいのだ。なにもこの行動を自体を非難するわけではないが食べられるのにもったいないの裏側の一端を考えるきっかけになってもらいたい。

消費側のロス

こちらもいくつかに分解して考えてみたいと思う。市場や輸送時点でのロスは今回考えないものとする。主に三つに分類できると思う。加工、小売、調理だ。

様々な加工があるとは思うのだが、近年の機械、保存、加工技術の進歩により加工時点でのロスは「カイゼン」によりだいぶ軽減されているのではないだろうか?と推測される、マヨネーズの製造過程をみても卵黄と卵白を綺麗に分けどちらも適切に加工されて製品として流通している。しかし、現代人の大量消費を支える為に消費量以上の数を生産し利益を出さないといけない構造を考えるに、製造した時点でロスを前提としているとしか考えられないのだ。バラバラに住んでいる消費者がどこの小売店でも大手メーカーの同じ品物が買えるというのを見ても一目瞭然である。なので、いくら製造工程を工夫したとして加工時点でロスがあまりでていなくても製造しシェアや購入機会を一定にする為にはこの構図は変わらないのではないだろうか?東京ではマヨネーズがどこでも買えるが地方ではあったりなかったりするといった世界は今の日本では考えられないからである。また、消費者が欲するに加工側や消費者が容認するとは思えない。


今回はこの辺で、また皆様に会える日を祈りつつ・・・

つづく?

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