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文学的散文が読めない

「あの、構造化して話してもらえるかな。」

上司はこんな感じで遮る。

私の書き言葉、話し言葉は上司にたびたび「わかりにくい」と言われる。機嫌が悪いときは「何を言っているのかわからない」と言われ、イライラが昂じると「変わり者だ」とまで面と向かって言われてしんどくなる。

こんなことを1年くらいやっていた。コンサルのお家芸の「構造化」を身につけたことで多少改善されたのだが、それでもやっぱり定期的に「私の言いたいことがわからない」マンが現れては醜い争いを繰り広げる。


学生の時から作文では随分と褒められた。国語はもちろん、体育までオール5で優等生だった。教科書的知識の延長で純文学を読むのが好きだったから、大学は日本文学科に進んだ。縦書き紐閉じの論文だって書いた。だから私の日本語が間違っているわけがない。

上下関係の中でわかりやすく怒られることにも耐性がなく、自分を形作っている言葉を否定されることが、自分の培ってきた専門性や人格の否定にまで感じられてしまう。

そのうち、「私の日本語がわからない上司は、実は教養不足のバカなのではないか」との仮説を持って自尊心を保つようになった。

そうすると、これを裏付けるように「浅草のほおずき市に行きました」というと「ホオズキ?何その食べ物美味しいの?変わってるね」という強者が現れたり、調査レポートに「多寡」と書いたら「これなんて読むの?意味わかんないこと書かないで」と睨まれたりする事件があって、いよいよ「この外国かぶれの30代は、立派に英語を話すみたいだけど、本当に日本語の教養がないバカが多い」と鼻を括るようになった。

こういう上司は、クライアントのおじさんが滔々と落語のようにおしゃれに意見を述べていると、あとで「話が長い、要点がわかりにくい。会議時間が長引いて生産性が低い。」などど悪口を言ったりする。
「コンサルは平易な構造化されたわかりやすい日本語ばかり読んでいるから、難しい言葉や聞き慣れない意見を聞くと思考停止に陥るのだ。」と自己完結した。

上司のことを尊敬できなければ、仕事をするのも会社に貢献するのも愉快ではない。
「多様性をほざいているけども、全くもって部下ともクライアントとも会話すらできないじゃないか」と、上司がどんなに他の仕事が優れていても、日本語がダメだと感じたらめざとく低評価をつけ、昇進にマイナス要素を加えるようになった。


そんなことをするようになってから半年くらい経ったか、外山滋比古氏の『知的生活習慣』を読んで、私の凝り固まった考えに一筋の光がさした。

どうやら文学青年が読み漁るような文学的散文と、論理的文章(論文)などに使う散文は全く成立の経緯が違う別物なのだという。

日本語は、世界的には比較的に散文文学が発達していると考えられている。
有名な散文文学の最たるものは平安の女流文学だが、実は詩歌を含むことを前提としていたり、型があったり、他の有名作品の故事を前提にウィットを含んでいたりする。その後の明治時代に発達途上にあった小説の口語体も修飾的な熟語を使ったりと、随分凝っている。こうした文学的散文は、論理をわかりやすく紙に落とすのには向いていない。「だろう」とか「だ」といった意見の使い分けも、実は散文的ではない。

それに対して、英語への翻訳も想定した論文は、頭の中の論理をそのまま紙に落とし込むことを目指して書かれるので、型も装飾も機転を効かせるべき前提知識も要らない。

日本で散文体が本格的に成立するのは寺田寅彦のエッセイ以降なのだという。その師匠の夏目漱石の小説は、落語の影響を感じさせる型のあるおしゃれな文学的散文体だ。

そういうわけで、文学的な散文体と実用的な散文体は全く形式も用途も別物である。

私は自分が美しい、良い、と感じて自然に使っていた散文が前者に属するとわかって、後者ばかりに慣れている上司が理解できないのも仕方がないか、と頭を丸くした。



私が頭の中で、「こいつは日本語的教養のないばかだ、こんなやつは文学部では留年だ。」と上司を貶している間に、上司は頭の中で「こんな数学的論理の言えないやつはばかだ、こんなやつは理系では留年だ。」と私のことを思っていたかもしれない。

自分と違う人がなぜ違うのかを理解するのは本当に難しい。
専門が違う人と同じ仕事をするとなるとことさらに難しい。

もういっそ割り切って、綺麗な実用的散文体を身につけて、文学的散文と実用的散文を書き分けるかっこいい大人になろう、と思った。

多様性は、違いの原因を納得するところから始まるのかもしれない。

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