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【#164】育つままにしておきなさい(メッセージの断片集53)

10月29日(日)の様子

 あっという間に10月も最後の日曜日を迎えました。礼拝が始まる前に正面のモニタには、Top画像にあるものを映し出しています。(この画像は、YouTubeのサムネイル画像としても使っています)だいたい季節にあった北海道の風景を、フリー素材のサイトから選んでいます。今回の画像は、屈斜路湖にある和琴半島の紅葉です。何人かの方はすぐに和琴半島と分かったようでした。

 隣町のI先生は、ゲストが来られた時の夜など、和琴半島にある無料の露天温泉に浸かりに行くそうです。満天の星のもと、月明かりに照らされた湖面が目の前に広がり、まるで湖に浸かっているような感じなのだそうです。

 この日の礼拝後は、月に一度、釧路の教会と協力し合って開いているオホーツクブランチ礼拝のために、知床半島の付け根辺りにある清里町に向かいました。途中、収穫されたビート(甜菜、砂糖大根)が積まれている風景は北海道ならではですね。この日、初めてお会いする方もおられ、主の恵みを味わう礼拝、お交わりの時となりました。(以下は、礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

毒麦という現実がある

 「神さまが本当にいらっしゃるならば、どうしてこの世界に暗い出来事やひどい事件が起こるのですか」という疑問を抱くのも理解ができます。また主イエスを信じると、いつも快晴、お花畑をスキップするような毎日が続くということでもありません。雨も降り、嵐のようなことも起こってきます。誘惑も試練もあります。聖書は、現実を無視した理想論を述べているのではありません。悪魔という敵がやってきて、毒麦という種を蒔いていくという現実があることをはっきりと示しています。

▲ 収穫されて積み上げられたビート(2023年10月29日)

自分の悟りに頼らない

 毒麦は穂が出てくるまでは、麦と良く似ていて、ほとんど見分けがつかないそうです。しかし穂が出てからだと、その頃には麦と毒麦の根が絡み合っているので、毒麦を抜き取れば、良い麦の根まで抜けてしまいます。毒麦だと思っているものの中に、実は良い麦がまざっていることもあります。「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違うかもしれない」という謙虚さが必要です。

 自分の判断で、人の悪を責め、裁いてばかりいると、いつの間にか、目の前にいる人の良いものまで抜き去ってしまうことになります。毒麦や雑草を抜き続けるように人の悪を思い、それを責め、裁き続けていると、いつしか砂漠のようになってしまい、雑草も毒麦もないけれど、良いものまで駄目にしてしまうでしょう。

▲ ビートの近影(2023年10月29日)

主を待ち望む

 自分の悟り、判断で毒麦を抜くのではなく、「育つままにしておきなさい」と主イエスは言われました。これは何もしないで良いということとは違います。毒麦かなあと思うものが現れた時、それを抜くのでも、放っておくのでもありません。毒麦があるから、水やりはしない、肥料もやらないということではなく、むしろ一緒に育てていくということ、育んでいくということを勧めるのです。

 「あの人のこの罪や悪が嫌だから、自分はもう付き合わない、放っておく」というのではなく、私たちは、その人のために祈り、とりなしていくということが、育んでいくことでしょう。その時、私が毒麦だと思っているところが、むしろそうではないということもあることを発見します。あるいは神の善の大きさは、人の悪や罪さえも、用いることができることを目の当たりにするでしょう。私たちの出来ることをする時、神は私たちの出来ないことをしてくださるのです。そういう主を待ち望むのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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