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【#304】悲しみの中でも(メッセージの断片集99)

10月20日(日)の様子

 お待たせしています。(最近、blogがupできないでいるので、言い訳から入る内容が多いですね💦)書こうと思っていることは幾つもあるのですが、なんだかかんだかとあって、なかなかupに至っていません。それでも楽しみにしてくださっていると告げてくれている方々のために、また私の知らないところで天を仰ぐきっかけとなる一人のために、できるだけ綴っていければと願っています。

 最低気温がマイナスだったこの日、「いい天気ですねー」と挨拶を交わしたら、「あられが降っていましたよ」とのこと。寒いはずです。そしてこれからは、「今シーズン一番の冷え込み」というニュースが続いていくのでしょう。

 3ヶ月、紋別で実習されていたF神学生は、先週の火曜日に横浜へ戻られました。76歳の神学生は、私が担当した中で最高齢です。そしてとても謙遜な器でした。男性が歳を重ねると頑固になるのがセオリー(?)だと思っているのですが、私もかくありたいと思うほど謙遜になって主の教会に仕えられました。神学生が帰られるたびに思うことは、教会に常駐者がいなくなることを紋別の皆さんは寂しく感じられるだろうなあということです。それでもこの日、紋別には16名の方々が集われたそうです。小さな会堂の紋別の教会にとっては、人口密度が高かったことでしょう。

 北見では礼拝後にお弁当愛餐会、そして虹の会(三浦綾子読書会)を持ちました。Jさんがお裾分けとして持ってこられた漬物の香りが会堂にただよっていましたが、『氷点』を読みながら老いも若きも、実直に感想を述べ合い、笑ったり、うなったりする声も会堂にただよっていました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックすると、メッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

苦しみの中でも、主の祝福は奪われない

 ヤコブは「どうして身重の妻がいるのに、ベテルを離れて移動してしまったのか」、「まさかベツレヘム・エフラタに着く前に産気づくとは思わなかった」、「ヨセフの時は安産だった、まさか今回、こんなに難産になるとは思わなかった」と、後悔の中で深い悲しみに沈んでいっても仕方ながなかったはずです。しかしヤコブは、どんな苦しい中にあろうとも、主の祝福は奪われないと信じて、産まれてきた子を「ベニヤミン」と名付けました。「苦しみや不幸に負けてしまわない、幸いの子だ」、「この子は敗北の人生を歩むのではなく、主の勝利の右の手に握られて歩んでいく」と信仰に立つことができました。

 どんなに悪い状況にあっても、その状況が主の祝福を奪い去ることはありません。むしろその悲しみを通して、今まで体験したことのないような主の慈しみ、味わったことのない主の憐れみや慰めを、救い主イエスが与えてくださると、私たちも聖霊によって信仰を強められたいのです。

罪の中でも、主の約束は変わらない

 ルベンのような悲しい罪があったとしても、イスラエルの12部族と呼ばれるほどに、神の約束は実現していくのです。人は罪犯し、失敗し、愚かなことをしてしまいます。しかし私たちの神には、失敗などないのです。神の約束は、人の罪によって邪魔されることなく、むしろ人の罪も悪さえも、神は善のために救いのために用いることができるお方なのです。

 私たちは主イエスを信じて洗礼を受け、主の名を呼んで礼拝を捧げています。そういう人に、そういう家族に、罪や痛みがあっても、主は真実の限りを尽くしてくださいます。私たちが不真実でも、主は真実なお方なのです。

悲しみの中でも、満ち足りる

 イサクは死を恐れることなく、むしろ息子たちが和解をしている様子を見て、満ち足りてこの世を去りました。ヤコブとエサウにとって父イサクの死は悲しいものなのですが、それでも兄弟が心を合わせて父を葬ることができたということは、そこに主の平安があったということです。

 当然ながら、どの家にも悲しみの涙、痛みや破れがあります。聖書に登場する家族も、模範的な家族ではありませんでした。それでも主なる神は、私たちを罪や呪いの人生ではなく、主イエスを通して祝福の人生に招いてくださっているのです。

 主イエスは「悲しんでいる人は幸いです、なぜなら慰められるから」(マタイ5:4)と言われました。悲しみの人であり、悲しみを背負われた主イエスは、悲しみを悲しみで終わらせないのです。むしろその悲しみを通じてでしか開かない扉を開けてくださり、そこでこそ知り得る慰めを得ることができるのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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