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【#47】若松英輔『悲しみの秘義』(読んできた本のこと1)

好きかもしれない

 もう5-6年前になるでしょうか、教会員のMさんから「先生はこの方の書かれるものが好きかもしれないと思って」と、若松英輔氏の『生きていくうえで、かけがえのないこと』をプレゼントしてくれました(今、この本は旭川に貸し出し中)。その時、初めて若松英輔なる人の名前を知りました。そしてその本を読み始めてみて、まさに私に「どんぴしゃだ!」と思いました。何が嬉しいかと言えば、私の語る聖書のメッセージを聞き、私が何を大切にしているのかがMさんに伝わっているということでした。そして若松英輔氏という、同時代を生きる書き手に出会えたこともかけがえのない邂逅となりました。

逡巡としながら

 大きな悲しみを通っていたある方の慰めを、遠く離れた地にあって祈っていました。傷口に塩を塗ることにならないだろうかと、逡巡としながら時を過ごしましたが、一昨年の11月に若松英輔氏の『悲しみの秘義』をお送りしました。

・・・出会った意味を本当に味わうのは、その人とまみえることができなくなってからなのかもしれない。
 邂逅の喜びを感じているのなら、そのことをもっと慈しんでよい。勇気を出して、そう語り出さなくてはならないのだろう。
 あなたに出会えてよかったと伝えることから始めてみる。相手は目の前にいなくてもよい。ただ、心のなかでそう語りかけるだけで、何かが変わり始めるのを感じるだろう。

若松英輔『悲しみの秘義』より

  上記のような言葉が、相手に届いたかどうかは分かりません。ページがめくられたかどうかも分かりません。音楽や料理に好みがるように、書籍にも合う合わないがあります。また悲しみが十人十色のように、それぞれに響く言葉も、悲しみや傷みからの立ち直り方というのも、同一ではありません。それは「秘義」(奥深く秘めて容易に示すことのない教えなど)に属することなのかもしれません。それでも今、その方は新たな邂逅の喜びを得て、希望をもって歩まれています。私の願いではなく、私の祈りは確かに聞き届けられました。

かなしみのメロディ

 私は「悲しみ」と「愛(かな)しみ」について、礼拝メッセージの中で幾度か語ったことがあります。「父なる神の悲しみは、愛するがゆえの愛しみなのです」と。若松英輔氏はさらに深く、幾つかの著作で「悲しみ」「愛しみ」そして「哀しみ」や「美(かな)し」について触れています。それらのかなしみは、無くてはならない音として重なり合う重奏となり、不協和音ではなく、美(うつく)しい旋律になっていくのでしょう。さらに言えば、伝道者の書(コヘレトの言葉)3章のように、様々なことがあっても、美しくないものがあったとしても、神が神の時に美しくしてくださるということでしょう。

 人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。単に、悲しみを忌むものとしてしか見ない者は、それを背負って歩く者に勇者の魂が宿っていることにも気がつくまい。

若松英輔『悲しみの秘義』より

 私は自分の語る口調や祈りは、「マイナーだなあ」と感じています。(この場合のマイナーとは、有名ではないという意味ではなく、明るい長調に対して暗い曲調の短調ということです)しかし、悲しみを通じてしか開かない扉をくぐり抜けていくことを忘れず、悲しみを背負って歩く勇者でありたいと、この本を通して勇気づけられました。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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