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【#301】澄んでいました(メッセージの断片集97)

9月29日(日)の様子

 またまたblogの更新が滞ってしまい、何度も訪れてくださった皆さま、大変申し訳ありませんでした。最近はいろんなことを謝っています。関わっていることが多いので、ミスをしてしまう確率も上がるのでしょうが、様々な要因が重なっているようです。頭を下げる度に謙遜にされていくと良いのですが、そうとはならないのが困ったことなのです。

 9月最後の日曜日、アメリカに行かれていた親娘も無事に戻られ、いつものメンバーがいつものようにいることのありがたさを味わいました。朗読される聖書、代表の祈りの言葉、証し、そして賛美の歌詞が、心の深いところに沁み渡っていくようでした。

 礼拝後は第13回一食断食祈祷聖会で、共に心を注ぎ出して祈ることができました。礼拝の民、祈りの民として歩んでいけることの幸いを噛み締めました。その後、来週日曜日に洗礼を受けるK君と面談の時を持ちました。K君の晴れやかな顔が、高くなりつつある秋の空のように澄んでいました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

祭壇を築く

 祭壇を築くとは、礼拝を捧げるということです。ヤコブの家族には礼拝が無かったのです。本当の意味で神を慕い求めていなかったのです。神の心を知ろうとしないと、人の心も分からなくなりますし、自分が正しいと自分の思いが中心となり、争いや憎しみが生まれてきます。

 既に32章で「あなたはヤコブではなく、イスラエルだ」と言われていたのに、どうじて35章でもう一度、同じことが告げられているのでしょうか。それはヤコブに真の礼拝が無かったので、自分のアイデンティティ、立つべきところ、聞くべき言葉を見失っていたのです。礼拝を捧げる中で、何度も何度も神の憐れみと愛と希望の言葉を私たちは聞き続ける必要があります。

聖なる主を求める

 ヤコブはベテルのすぐ近くまで来たのにベテルまで行きませんでした。その理由は明確ではありませんが、神の言葉に妥協していると言えるでしょう。信仰の妥協は、堕落への一歩になります。そして神の愛や祝福を分からなくさせます。またそればかりではなく、家族全体に大きな痛みや悲しみをもたらせることになったとヤコブはここで気づくのです。そこでヤコブは家族の中にあった偶像を捨て去り、信仰的な妥協を悔い改めています。私たちの中に信仰の妥協はないでしょうか。

全能の神が守られる

 ヤコブが周囲からの報復を恐れていたのに、真の神が周りにいる人々に、もっと大きな恐れを与えて、ヤコブたちを守られたのです。不思議なこと、驚くべき神の奇跡で、人間の頭では考えられないことが起こりました。主を愛し、主に近づき、心から礼拝する者を全能の神が守られるのです。

 しかもこの時、ヤコブは神に「カナン人から自分たちを守ってください」と祈り願っていません。ただ主の言葉に従って、ヤコブは礼拝を捧げるために、ベテルに向かっていくのです。神を第一にする時、神の奇跡と不思議を私たちは経験するのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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