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【#31】 きよく、正しく、恐れなく(メッセージの断片集10)

アドヴェント第3週の主日礼拝(12/11)

 この日は洗礼式があるということで、前の週から私たち夫婦も様々な準備を進めるのと同時に、聖なる主の臨在の中で恵みと喜びに満ちた洗礼式となるように、祈って備えてきました。この日を迎えられたこと、主が造られたこの日を喜べることは、感謝に堪えません。礼拝から洗礼式、そしてその後に至るまで、霊的な高揚感のようなものを内に抱いています。畏れと喜びが同居するような(マタイ28:9)、「あなたはこれを見て晴れやかになり、心は震えて喜ぶ」(イザヤ60:5)という思いです。

 礼拝後、今週水曜に北見駅で行うキャロリングの練習、ユースの賛美練習、午後2時からは「虹の会」(三浦綾子読書会)を持ちました。読書会では『愛すること信ずること』の最後の部分を皆さんで読み、綾子さんが私たちの背中を押してくれていることを覚えました。(以下は、礼拝メッセージの断片集です。洗礼式に関することは、また日を改めて記す予定です)

▲ 画像をクリックすると250字のエッセンスを読むことができます。

きよく

 ヨセフとマリヤは宿屋に入れず、家畜小屋で主イエスは誕生しました。家畜小屋とは、色んな臭いのするところでしょう。本来、人が泊まる場所ではありません。この家畜小屋は、真の神からずれてしまった、人間の罪の心を象徴しています。愛と真実の神から離れると、人の心は汚れ、良くない臭いのする所となります。神を忘れた人間は、自分中心になってしまう生き方となり、その結果、心が臭くなってしまいます。「香りでごまかしません」というCMではありませんが、外側の何かで自分の臭いをごまかすことはできても、根本的な解決にはなりません。

 「良い子にしていれば、サンタがプレゼントを届けてくれる」と言われてきたかもしれません。しかし本当のクリスマスは、心がきれいな人にだけ救い主が訪れてくださり、共に歩んでくださるということではありません。自分で自分をきれいにできない私たちを、聖なる者とするために救い主が来てくださったのです。

▲ ルカ1:74-75(新改訳第3版)

正しく

 「あの人は間違っている」「上司の言っていることはおかしい」、そうかもしれないし、それは事実なのでしょう。それでも自分の正しさを主張し、人の間違いに対して怒りを土台にして裁いてつぶやいてばかりいることが、果たして本当の正しさなのでしょうか。その正しさは、人を幸いにするのでしょうか。あわれみや愛が伴わない正しさは、人を裁き、切り捨て、分断する方向に進みます。自分は間違っていないと、自分は正しいという自己義を通し、自分はあの人よりましだと思い込む時、あわれみや愛がどんどん小さくなります。

 神の子であり正しいお方が、無実であるにも関わらず人の罪を背負って十字架に掛かられました。十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。何をしているのか分からずにいるのです」と自らを罵る者のために、叫び祈られました。救い主イエスは、人のために汗を流し涙を流して祈られ、人の罪を背負われた方です。十字架の主イエスの前では、私の正しさなど吹けば飛ぶようなものです。

 心がかさかさになって渇いてしまうのは、自分の正しさばかり主張し、愛やあわれみを忘れ、人のために流す汗と涙を忘れてしまっている時なのでしょう。ご一緒に救い主を仰いでいく時、主イエスの心が与えられ、愛の伴う正しさに生かされていくのです。

恐れなく

 「恐れなく」という言葉は、他の箇所では「心配なく」と訳されている言葉です。恐れや心配が私たちを支配する時があるものです。「恐れなく、主の御前に仕える」とあり、仕える(serve)ことが大切なのです。恐れてしまうのは、全知全能の神を見上げ、礼拝する心(serve)をが小さくなっているからでしょう。

 主が約束された祝福の道とは、主に仕え、主と共に歩む時、恐れないで生きていけるということです。神に仕えない歩みとは、自分のやりたいように、生きたいように生きていく、自分中心の生き方です。神に仕えるとは、神の言葉に従うことです。そして神が私たちに願っていること、与えている使命・ミッションがあります。この時代、今ここに生かされている、そこには意味や使命があり、主からのものを受け取り、主の御心に歩む、それが神に仕える歩みです。主イエスのように、神に仕える歩みをする時、恐れや心配は小さくなっていきます。「心配性を直せ」ということではなく、「わたしがあなたに平安を与える」と言われる救い主が私たちのところに来られたのです。

今日も主の恵みと慈しみが追いかけてくる1日でありますように。




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