日本誕生の謎を解く⑫乙巳の変の真の黒幕
クーデター乙巳の変
高句麗でクーデターが発生し親唐派が一掃されたと知った唐は、644年11月、高句麗への軍事侵攻を開始し、翌645年2月、太宗みずから大軍を率いて出征しました。
645年、高句麗と百済が唐への入朝路をふさいだと、新羅が唐に訴えました。
百済は唐との対決姿勢を明らかにしたのです。
この年に倭国で乙巳の変が発生しました。
中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿と蝦夷の親子を打倒したとされるクーデターです。
日本書紀では乙巳の変により、皇極女帝は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。
息子(中大兄)が起こしたクーデターを原因として姉から弟に王位を譲ったなんて話は、私は信じられないのですが、誰も不思議に思わないようです。
ここで私独自の推察を述べます。
参考系図
https://dl.sekainorekisi.com/wp-content/uploads/edd/2020/06/610b9dca0052725f877c913718c5d4a6.png
暗殺犯は百済人
乙巳の変の原因は、蘇我氏が横暴だったから?
いやいや。
この記事を最初から読んできた方なら、もうおわかりでしょう。
倭国の政治動向は東アジア情勢とリンクしているのです。
国内問題として捉えてしまうと真実が見えなくなってしまうから、私は大陸での重大事件を年号を添えて説明しています。
東アジアの歴史として順を追って歴史を見ていけば、倭国史のおおざっぱな流れがおぼろげながら見えてくるからですが、その視点を邪魔しているのが「記紀に集中する心理」です。
具体的な記録があると、どうしてもそこに意識が向いてしまうのですが、「木を見て森を見ず」の典型です。
我々はある目的で日本書紀に騙されているのです。
真実の「古代日本史」が一般の方々にもおぼろげながら見えてくるようにと考えてこの記事を書いています。
乙巳の変も、国内の政治事件ではありません。
蘇我氏政権が高句麗・百済と同盟せず、むしろ唐に従いそうに見えたので、高句麗と百済が内政干渉したのです。
だから、「三韓の使者」を迎えた大極殿で暗殺が実行されたと書紀に記録されているのです。
つまり、クーデターの黒幕は高句麗と百済。
もっぱら百済です。
しかし、「実行犯が百済である」ことがすぐにばれるような記述を避けたくて書紀編纂者は「三韓」と表現したのです。
日本書紀によると、事件に遭遇した古人大兄という王族が
「韓人(カラヒト)が鞍作臣(クラツクリノオミ:蘇我入鹿)を殺した。我は胸が痛む。」
と言って自宅に引きこもったと記録されますが、蘇我蝦夷の殺害に胸が痛んだこの人は後日、謀反の罪を着せられて殺されます。
「韓人」とは、すなわち半島から来た外国人という意味です。
親百済政権誕生
日本書紀は乙巳の変が中大兄王子(後の天智天皇)と中臣鎌足のおかげで成功したように表現する一方で、外国勢力の影を示唆する記述も残しているのです。
書紀によれば、暗殺は倭王が百済の使者と謁見する儀式において行われました。
私の推測では、その暗殺は百済の使者によって実行されました。
さらに、暗殺を実行したその使者は後世、中臣鎌足と呼ばれた。
と妄想します。
ターゲットは蘇我入鹿であり、その場で斬殺され、その父である蘇我蝦夷も一族とともに自害して果てました。
こうして蘇我本家は滅亡し、倭王は軽皇子に譲位しました。
ちなみに私は、このとき譲位した倭王は皇極女帝ではなく、その子の漢皇子であった可能性があると考えていますが、それは別の記事で触れます。
百済の支援を受けて誕生した新政権は、完全なる親百済・高句麗政権として唐との対決に備えることになります。
親百済政権に逆らう政敵は次々に粛清され、倭王となった軽皇子(孝徳天皇)さえ、後日、中大兄らの反発にあって難波の宮に置き去りにされ、寂しくこの世を去ったと記録されます。
孝徳天皇(軽皇子)は敏達系王族の筆頭として反蘇我系王族をとりまとめる役割を果たしましたが、高句麗と百済に対する支援に消極的になったため親百済勢力である中大兄らによって排除されたのかもしれません。元々、自分が倭王になること以外は念頭になかったのでしょう。
孝徳天皇の死後に即位したとされる斉明天皇は、乙巳の変で退位したとされる皇極女帝と同一人であり、中大兄王子の母であり、孝徳天皇の姉であり、舒明天皇と再婚した宝姫でもある、実にややこしい人です。
歴史から学ぶということ
百済からの支援を受けて政権を握った孝徳天皇の政権は、権力維持のため百済の力に依存せざるを得ない状況になっていました。
アジア情勢が緊張すると、外国勢力によって国内政治が翻弄され、同族同士で闘争が生じることもあるのです。
現代もこの現実は変わりません。
「日本」という国が誕生する過程で起きたことを想像することは、現代日本で生きる我々にとってとても価値のあることなのですが、どうしても記紀の細かい記述が気になってしまいます。
記紀に書いてないことは起きていないに違いない?
「歴史から学ぶ」ということは、そういうこととは違うと思います。
現代に生かせる教訓として古代史を楽しく推理していただきたいなあと思います。
さて。
斉明女帝と中大兄の親子に、予想もしなかった悲報が突如舞い込みます。
またもや倭国を揺るがす大事件です。