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フルトヴェングラーの運命を分けた1942年4月19日の第九


音源の基礎情報

• 指揮者: ウィルヘルム・フルトヴェングラー
• 演奏団体: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
• 録音日: 1942年4月19日
• 会場: ベルリン・フィルハーモニー
• 演奏目的: アドルフ・ヒトラー50歳の誕生日記念演奏会
• 音源の由来: アセテート原盤を元にした録音、リマスタリングが施された複数の盤が存在

歴史的背景と演奏の意味

1942年のこの演奏は、フルトヴェングラーがナチスの統治下にあったドイツで指揮したベートーヴェンの「第九」の一つとして、非常に象徴的な位置づけを持っている。ナチス政権のプロパガンダとして開催されたこの記念演奏会は、ヒトラーの50歳の誕生日を祝う公式行事として行われた。

しかし、フルトヴェングラー自身はナチスに距離を置いており、この演奏には複雑な背景がある。彼はドイツの音楽文化を守る使命感と、政権との妥協を余儀なくされる立場にあり、この状況下での指揮は彼自身にとっても非常に苦渋の決断だったことだろう。そのため、この音源はプロパガンダの道具という側面を超え、指揮者としてのフルトヴェングラーの内面的な葛藤や、音楽への信念が反映された歴史的演奏として評価されている。

音質とリマスタリング

この録音は、アセテート原盤を使用してCD化されたもので、元々の音質は決して良好ではない。リマスタリングを施したヴェネツィア盤では低音を過剰に強調し、音の厚みを無理に付加した感があるが、その後のキング盤ではこの点が改善され、より自然でバランスの取れた音質になった。とはいえ、元の録音技術の限界を超えるものではなく、音質は全体的にかなり粗く、特に低音域の表現に限界が見られる。

フルトヴェングラーの他の「第九」との違い

フルトヴェングラーは他にも数多くの「第九」を指揮していますが、この1942年の演奏は、特異な緊張感と圧倒的なエネルギーを持つことで際立っています。1951年のバイロイト音楽祭での「第九」や、他の戦後の録音に比べると、1942年の演奏はエネルギッシュで全体的に打楽器の迫力が強調されている。

特に終楽章では、合唱とオーケストラが一体となって突き進むような力強さが印象的だ。この演奏の背景にある政治的な圧力やフルトヴェングラー自身の精神的な緊張が、音楽全体に強烈な表現力を与えているように感じられる。1951年のバイロイト盤が「深い思索」と「平和」を象徴する演奏であるのに対し、1942年盤は「苦悩」と「怒り」の感情が色濃く反映されていそうだ。

各楽章の聴きどころ

第1楽章
 冒頭の静寂から急激に高まる緊張感。フルトヴェングラーはここでテンポを早め、すぐに音楽に劇的なダイナミズムを持ち込んでいる。オーケストラの重厚な響きが、音楽に重みを与え、戦時下の切迫感を漂わせる。

第2楽章
 リズミカルでありながらも、決して軽やかではない。クレッシェンドとアッチェランドを同時に駆使するアプローチが、この楽章全体に緊迫した雰囲気を与えている。戦争の影を感じさせるような、暗く鋭い表現だ。

第3楽章
 平和と慰めを感じさせる美しい楽章だが、フルトヴェングラーのこの演奏は安堵感に留まらない。深遠で厚みのある表現が特徴で、背後には常に緊張が感じられるような演奏だ。このスローな「アダージョ」は戦争下の抑圧された感情や、未来への不確実な展望を感じさせる。

第4楽章
 この楽章が持つ歓喜のメッセージは、通常の「第九」では解放的で祝祭的に演奏されるが、ここでは趣を異にする。バリトンによる荘重な導入の後、合唱とオーケストラが一気に爆発するように展開してゆく。フルトヴェングラーの解釈では、歓喜というよりも、むしろ抑えきれない感情の爆発が感じられ、深い悲しみと怒りが底流にあるように思える。

総括

1942年のフルトヴェングラーによるベートーヴェン「第九」は、単なる歴史的価値や政治的背景だけで評価されるものではなく、音楽そのものの持つ圧倒的な表現力により、クラシック音楽史においても特別な位置を占める演奏である。この演奏は「第九」の一解釈にとどまらず、時代背景と指揮者の内面の葛藤が交錯した、一つの芸術作品として捉えるべきだ。

音質に関しては問題があることは否めない。特に1942年3月の録音に比べると、コンディションには大きな差があるため、この4月19日の演奏は資料的価値に留まりがちな扱いを受ける。しかし、その欠点を補って余りあるのが、演奏に宿る圧倒的な力強さと、溢れんばかりの情熱だ。この演奏が持つ緊張感とパッションは、音質の問題を超えて聴き手を圧倒し、音楽そのものの強靭さを感じさせる。

また、「ヒトラーの第九」と呼ばれることがあるが、こうした呼称はこの演奏の本質を見誤らせるものである。ヒトラーはこの演奏に出席しておらず、政治的要素だけでこの演奏を語るのは音楽的な価値を曇らせる危険性がある。むしろ、この演奏はフルトヴェングラーの芸術的な表現の頂点の一つとして捉えるべきであり、「歴史的記録」として片付けられるには惜しい。

歴史的背景を超え、音楽的価値に焦点を当てながら、フルトヴェングラーが現場の空気と自身の心境をどう表現へ落とし込んだのかを、自らの耳で改めて確かめるべきだろう。

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