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【考察7】宗教や哲学で語られる真理(神さま仏さま)の正体について考えてみた

前半の内容はこれまでのオカルト考察をまとめたおさらい、後半から神仏についての新たな考察となります。

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悟りを得ていない人々の認識は、意識に顕れる前段階で、認識内容全体を、内的側面(心や自我)と外的側面(物質や外界)を分けることから始まります。そして、認識する主体と認識される客体との間に固定的な境界線を引き、それを基準にして世界をさらに分節化し、個別に区別されるさまざまな事象として意味をもつ輪郭や秩序を与えます。主体と客体を区別する自我意識に基づいた認識では、世界全体はばらばらに識別され、あらゆる事象がそれぞれ外在し、明確に区別できる境界線をもった固定的(非流動的)な存在として見られるのです。世界各地の創造神話も、分化全能性をもつ始源からの世界の分節化を表しています。たとえば、神に背いて善悪を区別する知識の実を食べたアダムとイブに内と外、自と他、見るものと見られるものを識別する自我意識が生まれ、ふたりが価値と判断の基準を自己保身、利己的思考の源である自我に置いた楽園からの追放の物語は象徴的です。

聖書では見るものと見られるものという主体と客体を区別するためのロゴス的な知識の取得が自我や悪徳の起源でした。一方、仏教では、主体と客体を含めた世界の諸現象を識別する心の作用、つまり善悪の知識の実を分別智と呼びます。この分別智が自我や事物がそれぞれ単独で独立し、固定的な実体として存在しているという虚妄、ひいては煩悩を生みだす要因だとされるのです。そして、究極的には、この分別を超えた「無分別智」による知見こそが悟りの境地とされます。紀元前からの伝統的な宗教や哲学の思想は、このような認識する主体と認識される客体をはじめとする、さまざまな二元論的な対立を克服することが目指されています。明確に区別できる事物や現象からなる物質的世界は二次的なものであり、わたしたちが普段認識する現実は、世界の本質ではないと考えられているのです。そこには、自我と世界の対立を超えた、本当の現実や真実(真理)を認識する方法論があるという考えが根底にあります。これは、外界の物質的事象を認識する外的感覚だけを信用し、その客観性のみに基づいた近代科学の方法論とはまったく異なるものです。

識別作用をもった自我意識の枠にとどまっているかぎり、認識する主体と認識される客体の対立が生じます。伝統的な宗教や哲学では、現実や真実とは、この自我意識や自我を中心にすえた心の作用(我欲や物欲)を捨て去ることではじめて、理解できるものとされます。自我や我欲を解消し、世界と対立する境界を崩すことで、すべてを我がこととしてとらえる、あるいは自我を消し去った全体一体の視座から神さまや仏さまの世界を覗くことができるのです。自我と世界が一致した時、それは忘我、脱我、脱魂、無我、変性意識の状態となり、物自体となって見ていると言い換えることができます。つまり、世界そのものを体験する視座が得られるのです。この脱我的状態とは、自分ではないもの、つまり外在して対立する世界と内的に合一した状態であり、自他の境界がない有機的な混然一体の相互作用がおこなわれます。自我を超越した次元では、自身を含めた森羅万象が有機的に接続され、主客未分にして万物一体の秩序が広がっています。内的経験と外的経験、さらにはあらゆる事象が外在するものではなく、主観と客観、精神と物質、個物と万象といったすべての矛盾する対象が、相互に包摂された状態でとらえられるのです。

有機的秩序の全体性、つまり神仏の本質である超自然世界とは、自我や肉体の境界を超えた脱我状態へといたることで認識されます。超自然的なものをとらえる超自然的な感覚とは、自我の発達とともに人類のなかから徐々に失われ、意識・心の奥深くの深層に隠されてしまったものです。この脱我状態の機序は、有機体論(有機体システム)の観点からシステム論的に理解されます。表層の要素である主体(表層意識の自我)のフィードバックループ(非線形性)が増大すると、系全体と一体化した動的な状態となります。つまり、表層意識で起こることと深層意識で起こることが非線形現象として協働し、連動して一致するため、表層の自我意識が消失し、主観と客観を分けるフィルターを介さない直接的な経験(純粋経験)が可能になると考えられます。この過程により、主体と客体、そして世界全体との間に類推関係が生まれ、内的経験と外的経験が結びつき、主体と客体を含む世界全体が統一された体系としてとらえられるようになるのです。

自我意識からとらえられる客体化・客観化された世界では、特定の原因から結果への一方向の因果関係があり、再現可能な因果関係を確認できます。このような単純な因果律にしたがっている場合には、事象は独立した要素や一義的で不変の法則に還元することが可能です。しかし、ある要素の出力がシステム全体からふたたびその要素(原因側)へと非線形に入力される、いわゆるミクロ・マクロのフィードバック(創発現象)がある場合には、因果の連鎖が複雑に絡み合い、明確な因果関係が失われます。その結果、事象の分別が時間的にも空間的にも無分別となり、消失してしまいます(主客未分、無分別智、無我の境地)。つまり、有機体システム内に存在する主体のフィードバックループが増大することで、認識主体を含めた世界全体の各事象の因果関係が協同化し、その境界が流動化するのです。

一方、ユング心理学の観点からみた意識の構造では、意識と無意識を含めた心全体の中心を「自己」と呼びます。自己とは、階層構造をもつ意識の最深層に位置する根本であり、階層すべての構造を包摂し、すべての存在が共有する活力や意思、知識の源泉です。これに対して、意識の中心である「自我」は、自己から分岐して全体のなかから一部分のみが抽象された、表層にある個人固有の構造です。この観点からすると、神仏は意識の最奥に存在する「自己」の象徴と考えることができます。イエス・キリストは、天地と万人をつなぎ、神の国へと導く、キリスト者にとっての内奥化された自己の象徴といえるでしょう。

アダムとイヴの楽園追放の物語は、神話の類型のひとつである「バナナ型神話」も含んでいます。バナナ型神話とは、各神話に見られる死の起源を説明する物語であり、そこでは永遠不変の命を得る機会を失ったことが死の起源であるとされています。これは、自我を獲得する代償として自己を喪失し、その永遠性が失われたことを示していると考えられます。本当の生命とは、木の根のように隠れて見えません。肉体という葉は春に茂り、冬に枯れてしまう一時的なものです。しかし、有機体システムの最深層に位置する自己という根(分岐構造の根ノード)は、変わらずにつづいていきます。明確に区別できる事物や現象からなる物質的世界は、巨大な樹のほんの一部である枝先の葉のようなものであり、“肉体をとる”とは、ひとつの葉として根から枝先へと派生するようなものです。肉体という一枚の葉に閉じた自我意識は、時空的にも精神的にも拘束され、自由がきかないかぎられた状態といえます。

死、苦、欲、妬、憎、怒、不和などの観念は「個」に執着してしまう自我意識の作用ですが、宇宙すべての中心にしてすべてを包摂する内なる自己意識はその全体性をもってして、この世の物質的で粗野な空間のなかを照らしだします。自我意識は「個」に執着してしまいますが、自己に開かれた意識の形式をとることで、万人へと注がれる愛や慈悲をもたらすのです。古代の宗教や哲学の真髄においては、神、エイン・ソフ、善のイデア、一者、空、真如、真我、タオなどといった、生命や宇宙の根源との統合、つまり、自我と自己の統合による意識の単一不可分な全体性の回復がおこなわれます。それは、みずからの内に秘めた自己を発揮することで、だれしもがキリストとして受肉し、人間の手によってこの世に内なる神の王国を実現することかできるし、だれしもが悟りの知見を得た仏となって人々を救済できるという精神的な「楽」を実現できることを意味するのです。

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