【考察4】宇宙は一つの生命体? アニミズムから聖書、量子力学まで、古今東西の自然観にみる有機的な一体不可分性
古来、人類は世界全体の各現象がばらばらに動作するのではなく、有機的に動作するひとつの統一体としてとらえてきました。本稿では、世界中の独自の自然観に見られるその万物一体的な思想を説明していきます💪💪
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デカルトの二元論的な認識方法では、意識に現れる前段階において、認識内容の全体を、内的関係からなる主体的側面を「心」や「自我」とし、外的関係からなる客体的側面を「物質」や「外界」として識別します。そして、思惟する自我を主体とし、その相対として主観内の物質的事物を具体化し、外在する実体として客観的に認識します。この主体・主観と客体・客観を分別するプロセスは、無意識のうちに自動的に行われるため、人間にとってあたりえの自然な認識方法と感じられるかもしれません。しかし、主客分離の状態にある近代的自我が確立する以前は、主と客の境界は明確ではなく、流動的で相互に関係し合うものとされていました。すべての事物は有機的な統一体の一部であり、個別に分離されたものではなく、全体の一部として相互に関わっていると見なされていたのです。
主観と客観が区別されていなかった時代、世界は統合されたひとつの有機的な全体として理解されていました。たとえば、狩猟採集が可能な気候風土に恵まれた土着文化では、アニミズムやトーテミズムに基づく自然観が見られます。この自然観では、人間と動植物、自然現象を別個の存在としてではなく、区別のない同一の存在とみなしたり、それらに霊的存在や人格が宿ると考えられていました。デカルト的な「心と物の分離」とは対照的に、これらの文化ではすべての存在が連続的につながり、その境界はあいまいです。
自然界のすべての現象は流動的で、互いに影響し合いながら活き活きとした存在として認識されていました。このような世界観では、人間は自然から切り離された存在ではなく、その一部として共存しています。「主体と客体」「内界と外界」「個物と万象」といった対立概念は有機的に統合され、すべての現象は全体の秩序のなかで相互に補完し合っています。個々の要素は孤立して存在するのではなく、相互の境界が緊張と緩和をくり返しながら、個体と全体の調和を保つために機能しています。つまり、世界の構成要素は機械的で静的な実体ではなく、流動的な関係性のなかで絶えず生成し変容しつづけるダイナミックなものであり、人間もその一部であるという認識が強調されます。
参与と融即のアニミズム→https://www.ibunsha.co.jp/contents/animism01/
東西の古代思想においても、有機的な統一性と主客一元論が展開されています。東洋思想では、梵我一如、ロカ・プルシャ・サーンミャ、縁起、一切即一、万物一体の仁、天人合一、気、八卦、大周天。西洋思想では、プネウマ、聖霊、元素論、世界霊魂、目的論的連関の連鎖、万物照応、流出説、聖霊、神秘的合一などがその例です。いくつか説明すると、梵我一如はインド哲学の概念で、宇宙の原理であるブラフマンと個人の原理であるアートマンが本質的に同一であることを意味しています。
アートマン、中国哲学の気、古代ギリシャのプネウマ、聖書の神聖なる霊は「気息」を意味する自然の原理で、流動する不可視の活力が万物の生滅変化をつかさどり、人と人、人と自然、人と神それぞれのつながりに働いているとされました。現代でも施術される漢方薬やツボ治療も、伝統中国医学の理論においては、天地と人体を巡る気が調和した状態が自然で健康な状態であり、その目的は乱れた気の巡りを調節し、天地人の一体不可分の全体性を回復することにあります。万物照応は錬金術や魔術、占術などにみられる自然の原理で、人間などの部分系と天体の運行などの全体系には相似的な関係があり、動的に影響しあうという考えです。
古代の哲学や思想、宗教は、主客の対立といった二項の調停・統合を命題としています。そして、その奥にあるものこそが生命と宇宙の本源であり、真理であるとされました。現代の道徳規範の源となった東西の古代都市文明の思想では、自我や欲望、執着、悪徳といった俗世の見解が禁忌とされていました。そして、俗世の価値観を手放して意識を純化させることで、最高善、無限、神、ブラフマン、無我、真如、タオなどと呼ばれる宇宙の本源が直接的に体験可能とされていたのです。
聖書においては、宇宙の原初からの主客二元論的な派生が描かれています。象徴的な例として、神に背いて善悪(天地と同じく「すべて」を意味する)を区別する知識の実を食べたアダムとイブの物語があります。彼らは内と外、自と他の違いを認識する自我意識をもち、自己保身や利己的思考に基づく価値判断を行うようになりました。この楽園からの追放の物語は、自我の誕生とそれにともなう原罪や悪徳、肉体的な苦痛の起源を示していると考えられます。
聖書では、見る者と見られる者という主客の区別をもたらすロゴス(混沌から万物を区別する神の理法)的な知識が自我や原罪の源であったとされます。一方、大乗仏教においても、主客の分離とそれによる識別をロゴス的な作用として「分別智」と呼び、これが自我や事物が単独で成立し、明確な境界線をもって固定的(非有機的、非流動的)に存在するという妄想を生み、煩悩の要因となると説きます。そして、究極的にすべてが統合された「無分別智」による知見こそが悟りの状態であるとされます。
そして近現代、科学革命から産業革命、啓蒙主義の時代にかけて、人々の世界観が急激に変わっていくなかで、古代都市文明の時代と同じく、二元論と機械論を克服・調停しようとする潮流が思想・哲学界で生まれました。機械論的自然観は、デカルトの心と物を分離する二元論に基づいて自然を機械のようにとらえる自然観です。機械が規則的に動作する部品の集まりであるように、あらゆる自然現象もまた、規則にしたがって動作する要素の集合として理解され、活力や意思をもたず、単に因果関係によって支配されるものとされました。
デカルトの思想は、科学や技術の発展、啓蒙思想を促進しましたが、同時に心と自然、主観と客観を分割し、世界を機械論的に理解する傾向を強めたため、後にこれを調和しようとする哲学的な試みが生まれたのです。日本では西田幾多郎や大森荘蔵がその代表でしょう。なかでも、物理学者のデヴィッド・ボームは、量子力学の観点から意識と物質を統一的にとらえようとしました。波動性などの奇妙な性質をもつ量子は、特定の時空点において単独で独立した実体として考えることができないだけでなく、量子とそれを測定する観測者との間にも明確な独立性がなりたたないことがわかっています。
ボームは、この量子と観測者の関係を川の流れにたとえました。特定の時空点に存在する量子の粒子性は、川の流れに生じる渦のようなものであり、より本質的な実在においては境界も分断もなく、流動的な関係をもつ全体と結びついています。したがって、確定された特定の時空点の状態は、観測者を含めた全体の状況によって決まると考えるのが適切であり、観測系と対象系を分割して考えることは不可能だとしました。観測者と観測対象は、分割も分析も不可能なひとつの全体的実在の相互に浸透し合う流れの側面にすぎません。
個別の物質は宇宙全体のより深いレベルでの全体一体の秩序の一部ですが、その秩序はホログラムのように全体が部分に含まれており、ボームはこれを「内蔵秩序」と呼びました。この内蔵秩序においては、人間を含めたあらゆる事物は一体不可分の全体の流れの一部です。一方、わたしたちが普段認識している物質的世界は「顕在秩序」と呼ばれ、明確に区別できる具体的な物体や現象から構成されています。しかし、意識や物質はこの顕在秩序の背後にある内蔵秩序に根ざしています。
つまり、意識と物質は異質なものではなく、より深いレベルで一体となっているのです。ボームは意識の本質を固定的な「モノ」ではなく、「流れ」としてとらえ、全体として生成変化しつづける「コト」であるとしたのです。ボームの理論によれば、わたしたちが日常的に経験する分離された世界観、つまり個別の物質と意識が分かれて存在しているという考え方は、あくまで表層的な認識なのだされます。この観点では、顕在意識はその総体である内蔵秩序=潜在意識の表層にすぎないのです。表層的な世界は、内蔵秩序という深いレベルでのつながりや相互作用の顕れにすぎず、じっさいには宇宙全体がひとつの統一的なプロセスとして機能しているのです。
意識と宇宙の表層にすぎない物質的世界に縛られた、悟りを得ていない凡夫の認識とは、冒頭で記述した方法をとっています。主観と客観の対立を始めとして、世界を自分とそれ以外に分けるなど、人間が設けるさまざまな境界線を引いて区別することで、複雑な世界をわかりやすい「現実」としてとらえているのです。あらゆるレベルの識別によって主客を含めた世界全体を規定的に区切ることで、諸々の事物や現象を一貫したを内容をもつ静的な実体として認識し、この知識を共有して一般化ていきます。このとき、原因と結果の間に単純で機械的な関係性を見つけると、それを「真実」だと考えるのです。つまり、わたしたちの「現実」や「真実」という概念は、物事を単純化してとらえようとする考え方に基づいているのです。
近代科学の方法は、この考え方をもっともよく表していると言えるでしょう。しかし、じっさいの「現実」は、人間の理解をはるかに超えた複雑なものであり、混沌としているのです。そこでわたしたちは、この複雑な現実を、ある程度単純化して、自分なりに理解しやすい「現実」を作り出そうとするのです。これは景色を地図に描き出すようなものです。地図はじっさいの景色を完全に正確に表すことはできないが、全体像を簡単に把握するのには役立ちます。このように、外界と対立する自我意識が作り出す「現実」は、じっさいの「現実」を近似的にとらえたものであり、かならずしも完全なものではありません。この過程でじっさいの「現実」がもつ豊かさや奥深さは、どうしても失われてしまうのです。