亡き両親は山里生まれ育ち どちらも誇れるくらい高く美しい山が近くにあるからアウトドア好き 大自然(北岳や槍ヶ岳等日本アルプスも登頂出来た 黒潮のある太平洋も好き)を満喫する機会が少ないここ何年かだけれど… 都市に生まれた私は出来るスポーツと芸事ぐらいしか興味なかった 良い風景だ😊
夢や希望だけで行った訳ではない! でも、とても”収穫”があった土地であった。 それが「ニュージーランド」だった・・・ 始めに、少し”余分な話”からなのだが・・・自分の親しい関係で海外渡航経験者達の話を・・・ 読んでくださっている方々で、海外生活を長年やっていらっしゃる方々も何人かいる事でしょう・・・ 自分のような1970年代初期生まれで、下町育ちの者にとって 海外へ渡航する事事態、幼い頃からの憧れとはいえ・・・ とても勉強だらけとなる事を覚悟していたからねえ~ 今だか
太平洋の海 初めて来た時からずっと好き かつての巨大地震があっても… ツーリング先 海や山側を目指していたし… キザではないが初デート先もここ そうでなくても曲作り 楽器の練習 物語の創造そして構想も… 心 疲れ切った時 涙流す事 出来た所 青い空と海 気持ち いつも原点回帰だね
生地実家近くの川と堤防(幼い時は土手)そして周りの風景 幼い時から台風の多い季節 最近多い豪雨水害の時 かならず警戒 というのが鉄則 普段なら古い段ボール紙を使い”滑り台”に… また 下町の仲間達と花火もした事があったなあ.. 半端な都市開発の今 ”単なる住宅村”化は虚しいだけ
過去の恋愛経験を物語にしようと案を練っている最中 noteで創っていく事 続けられるかなあ~? と少し悩んでしまっている 何せ”昭和時代後半”の話だからな~ ハッキリ言って生地に対して良い思い入れはない!に等しい 使える時間と資金 お互い様で考え 実行していた ほろ苦い記憶の一つ
何年か前まで南関東に住んでいた 生地に一番近い空港の風景 幼い頃 当時としては早く逝った祖父が「ここが遠くの風景を見るには最高だな」 という一言から自然と足を運んでいたっけ 他に近くの港にも… 色々な輸送機械に興味があったからだ 曲作り等 他の創作の構想にも こういう風景は最高
実は幼い時から”外交親善”が好き! というよりも「旅」好き 一時は他国で働いてきたし 下町であっても”移民難民”といった外国籍の人達は けっこういた 町工場とか小さくてもお店もやっていたっけ… それでも○○半島フィリピン等東アジア方面の人達との近所付き合いは難問! やりにくいね…
物心ついた時から、いつも”戦闘状態の気持ち”が抜けきれない生活だった 昭和時代中期を過ぎ・・・私が生まれた年以降というのは、社会全体がインフレーション経済社会(オイルショック期)になっていた筈だ。 亡き両親達も、先の大戦中に生まれた年頃の人達だったし、地方の田舎出身者でもあったから、生活レベルというのは”中の下”であった。 一地方の寺町、神社町育ち(いわゆる下町育ち)であった事が、多少なりとも”気持ちの上では救い”でもあった・・・ でも、”物に対する豊かさ”はなく・・
私の年代で幼少期から現実社会で味わった事 やはり”色弱と強近視による差別”であった でも、そこから”出来る事を即!実践行動”が音楽(ジャズ等)と絵画も含めた芸術の世界へ 決して目立ちたがったわけではない ”無欲夢中”という時間を大切にしたかった 挑戦したい事 まだまだあるねえ~!
物心ついた時から”チャイルドケアラー”だった 子育ては、いとこの子供(10年以上歳の差ありの男女)や”義理の関係の兄貴夫婦の子供(中に平成生まれの子も)を赤ちゃんの頃から手伝っていた つい最近まで難病もあった両親の看護介護 兄は過労から少し心の病(職場復帰してる) 波乱と充実も…
ブログを書く…というより”日記みたいなもの”を書く といったほうが自分には合っている この歳になっても”宇宙や大自然””世界と人以外の生物”人の事をいうなら”移民難民問題からくる日本国内にもある”「分断社会」(個人的には”壬申の乱”以降からと考える) それより『良い事』発見したい