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約8年暮らしたニュージーランドから突然帰国することに決めた理由
約8年暮らしたニュージーランド。留学当初からの目標は、永住権をとってずっとこの国で暮らすこと。そう思えるほどニュージーランドは肌に合っていましたし、働いていてもストレスのない生活がすっかり自分の日常になり、気持ちはすっかりニュージーランドの人。
暮らす年数が長くなるにつれ、むしろ母国の日本の方が遠い存在の国であるかのような感覚になり、帰りたくても簡単には帰れない場所、年に1度の長期休暇で、自分へのご褒美に爆買いする国という位置づけに。当時の私にとっての日本は帰る場所というよりエンターテイメントの国。ニュージーランドには無いキラキラしたもので溢れていて、何でも手に入るし、ご飯も美味しいし、どこに行っても賑やかで活気がある。1年の労をねぎらって、最大限に贅沢する為の国。もはや日本での暮らしの方が当時の私にとって非現実でしたから、帰国して日本で暮らすイメージなど1ミリもなかったのでした。
そんな私がなぜ突然帰国を決意したのか。
現地で学んだ「写真」と関係のない仕事をしていることへのジレンマ
当時、私は縁あってとある土産物店で販売員をしていました。
お土産販売の仕事は、自分でも思いがけず天職と呼べるものでした。しかも楽しく働いているうちに22歳でスーパーバイザーにまでしてもらうという幸運。心から楽しいと思っていましたから仕事には何の不満もなかったのです。
しかし、ふと色んな考えが頭をよぎるのです。
この仕事を極めたとして、自分にはお金以外に何が残るのか
仕事としては誇れるものでした。楽しくてやり甲斐もある。私には大変なことよりも楽しさが遥かに上回っていましたし、毎日出勤が楽しみでした。収入面も、最低賃金が高いニュージーランドではスーパーバイザーにまでなれば十分すぎるくらいでした。
しかし、安定した暮らしを送りながらも新しいことへの挑戦欲は常にあったので、いつでも頭では次のステップを模索していたのでした。元々販売員は生活の為に始めただけでしたし、それが思いがけず楽しめるものだったとは言え、永遠にやり続けるかは別問題。
ではもしこの仕事をやめたら?現地で学んだ写真に関する実務経験は一切積んでおらず、プロとして働ける技術もなかった私が転職したとしても、結局また写真と関係のない仕事を一から場繋ぎ的にやるくらいでしょう。
就労ビザをもらって働いていたことが足かせに
当時のお店で働き始めた頃は、学生ビザからワーキングホリデーに切り替えて働いており、その後は会社から就労ビザをもらって滞在していました。就労ビザは、簡単に言えばそこの会社で働くためのビザです。その会社からビザをもらって滞在している限り、別の仕事はできません。
つまり、その会社をやめると同時にビザも失うため、決められた期間内に国を去るか、新たな職場からビザを発行してもらうかしか方法がない訳ですが、後者はヘッドハンティングでもない限り難しいでしょう。
となると、ニュージーランドに滞在する限りは就労ビザを更新し続けるか永住権を取るしかなかったのです。初めは永住権を取ることを最終目標にしていたのですが、自分の今後の人生を考えた時に、ニュージーランドで暮らし続けることで自分の望む経験を積んで生計を立てていくことが可能なのか、疑問に思い始めました。
当時のニュージーランド企業は現地人を優先採用
外国からの移民が非常に多いニュージーランド。移民経営のお店も多く、何かしらの技術や能力を持った移民も多かったため、当の現地人が就職難になってしまうことが問題視されていました。
その為、ローカル経営の企業はニュージーランド人を優先的に採用する傾向が強くなり、明らかに即戦力になる人材を除いて、専門職において外国人が一から技術を学べる労働環境はあまりなかったように思います。
少なくとも写真スタジオなどはそうで、販売員をする前にいくつかの写真スタジオに履歴書を持参しましたが、経験や技術がなければ面接すらしてもらえませんし、「初めは無給のアシスタントでも良いので!」と言ったところで、それが外国人の小娘とあらばめんどくさがられて門前払い。そもそも1人でもできてしまう職業だけに、わざわざアジア人を雇って教えようだなんて思わないですよね。
これらのことを思い出しながら、何気なく日本の求人サイトを見てみたところ、かなりの衝撃が走りました。なんと写真関係の求人の多いこと!しかも、未経験者歓迎を謳っているところも多く、育ててもらえる環境の多さが桁違いであることに気が付いたのです。
私が興味を持っていたブライダル業界も、ニュージーランドでは個人でやっている人がほとんどで、求人など見たこともなかったのに、むしろ写真業の中でもブライダルが特に求人が多いことに驚き、途端に日本がチャンスの宝庫の思えたのです。
考えてみれば、全国民が500万人程のニュージーランドと比べると、市場規模もこれだけ違って当然なのですが、社会経験もないまま高校を卒業してすぐに日本を出た私にとっては、日本がとてつもなく可能性に満ち溢れた国に思えたのです。
そこから一気にエンジンがかかりました。調べれば調べる程興味深い企業や情報がヒットし、いつしか日本でフォトグラファーとして活躍する自分をイメージしてわくわくするようになりました。日本に行けばそれが叶うような気がしてならなかったのです。
そして帰国が現実味を帯びてきた頃、外国人が日本の京都に憧れるのと全く同じ理由で京都に憧れ、京都で和装の前撮り写真を撮ってみたい!
という明確な目標ができたのです。
日本人でありながら日本に恋焦がれる中で、長年暮らしてこの先も住み続けると思っていたニュージーランドでの生活にすぐに未練がなくなったのです。それよりも、日本に帰ることによって自分の新しい人生が始まり、新しい自分に出会えるような、そんな高揚感で身震いするくらいでした。
それまで不自由もストレスもない平和な日々を送っていましたが、平穏すぎる日常の中では自分は成長できないタイプであるということに気づき始めていましたので、日本に突然帰国した後の全く想像ができない未来には、自分すら想像もできないような自分がいるのだと思うと、始めてニュージーランドに来た時と同じように、今すぐにでも飛び出したい衝動で気持ちが落ち着かないのでした。
ただ、職場には多大な恩を感じていましたし、立場上急に退職することは避けたかったので、退職希望者は通常1ヶ月前までに申し出れば良いニュージーランドですが10か月も前もって伝え、帰国を励みにそれまでは職務を全うしようと誓ったのです。
この時、25歳。
通常であればそこそこの社会経験がある年齢ですが、日本での社会経験はバイトも含めてゼロ。
ニュージーランドではそれなりに色々な経験をしていましたが、新卒のような状況で違う国で働くのはかなり大きな決断だったと思います。
チャンスに恵まれるかもわからない、やりたいことができるかも成功できるかもわからない、なんなら故郷と違う全く新しい都会で生活していけるかもわからず、親からも「せっかく良い仕事をしているのにもったいない。日本に帰ってきたらお金もかかるし、仕事があるかもわからない、無謀だ」などと言われましたが、無謀だなんて思ったことは一度もありません。側から見たら衝動的かもしれませんが、自分の中ではある程度長期的に計画を立てていたんですね。帰国してすぐに写真の仕事ができなかったら、それまでの間何をしてでもとりあえず食べていく根性はありましたし、それを苦に思う自分でもないとわかっての決断だったわけです。
ニュージーランドで暮らし続けるこれからの5年より、日本で過ごす全く未知の5年の方がよっぽど楽しみ。
一言で言えば、これが私が帰国を決断した理由の全てだったのです。
青春時代を過ごし、たくさん勉強して、挫折もしたし、正直何事も中途半端で大きな成果も残せなかった落ちこぼれでしたが、社会経験も積み、たくさんの人に出会い、自分の未熟な価値観を成長させてくれたニュージーランドは変わらずに大好きで特別な場所です。
しかし、飛びたいと思ったときに飛ばなければ、そのうち飛べない体になってしまいそうで、それは人生においてとてももったいないことのような気がしたのです。
生きている限りは色んな世界を見てみたいし、新しい自分にも出会いたい。
そんなことを考えていると、若さゆえか、不安に思うどころか体の底からエネルギーが湧いてきました。
そして結果的に私は運良く、希望していたブライダル企業に正社員として中途入社させてもらい、働きながら撮影技術を学んで場数を踏むという、ニュージーランドにいたままでは経験できなかったであろう日々を過ごすことに。そこから結婚、出産、フリーランスへの転身など、目論見通り新しい自分にもたくさん出会えました。どのエピソードを語っても、帰国直前の私が羨ましがるであろうことばかりです。
私は、行動を起こしたいと思ったとき、それがどんなに突然であったとしても、自分にとっては必ず意味があって、大きく飛躍できるチャンスなのだと信じています。
なので娘たちがもし大きな決断を前にした時、成功してもしなくても必ずあなたを大きく変えてくれると伝えることに決めています。