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わたしが見てるのはわたしだけの世界ですか?【キャリコンへの道#6】
クライエントは自分の世界から自分の言葉で話す。
第3回目の授業で教わったその言葉は、
人生においてもとても大事な見方だと思う。
人間はどうしたって、自分の世界から見た物語しかないように感じてしまう。
だからこそ、他者との関わりが苦しく感じられ、
「自分が社会不適合者なんじゃないか」と考えてしまう。
その時、キャリアコンサルタントがすべき視野の広げ方として、
焦点の当て方を変える質問をしていくことだ。
コンサルタント
私たち(キャリコンと相談者)
他の人
問題
文化的社会的内容
こちらが自己開示として「自分もそう言うところある」といってみたり、
相談者は誰にでも言うことじゃないことを伝えてくれていると言うことを自覚したり、色々な心がけが必要になってくる。
ただの会話ではない。
ゆっくりと、自分の心と向き合うと言うのは正直きつい。
だからこそ、キャリコンは純粋に話を聞き、気持ちを引き出すことに全力を注がなければいけないのだろう。
相談者のその奥にある本当の思いを探る。
すべての答えは相談者自身の中にあるから。
そうは言うけれど、カウンセリングなどにいくと
わたしは今まで正直モヤモヤしていた。
そのカウンセラーが誘導したい方向性を感じ取ってしまうから。
「こう言うところがあるから、こう言うふうになおしていきたいなって思います」
なんて、言ってしまう。
本当の思いにたどり着くことはない。
どうしてなのだろう?
多分、わたしはこうやってずっと文章を書き続けてきたからだ。
感情を観察して、他者を観察して、考えて理由を探って、
言葉にしてきてしまったからだ。
何度も何度も考えて、別の視点で考えて、ずっと生きてきた。
隙を作ってはいけないとおもっていた。
自分の考えに一つの隙もあってはいけなかった。
そうしないと、つけ込まれて被害を訴えることもできないから。
これは何度も書いてきたことではあるが、
小学生の時から嫌がらせを受けた時、加害者は
「小柳も給食食べるの遅い!」などと全く関係ないことを引き合いに出して、
わたしにも非があると主張した。
先生は揉め事がめんどくさいから、
「じゃあ、小柳さんも反省して、これで終わりね」と言った。
喧嘩両成敗だ。
相手がわたしをバイキン呼ばわりしても、
わたしの小さな行動に非があれば、わたしも悪くて、加害者は刑を免れる。
そう言う社会で生きてきた。
だから、何度も考え、考えて、他者からみた自分のことも考えて、
非がない状態にならなければいけないと動いていた。
その癖は、思考が止まらないという状態を作り出した。
同時に二つの思考が走っていく。
一方は自分の考えで、もう一方はその考えを否定する考え。
止まらなくなったそれは、わたしの中で暴走する。
そう言う時は
「思考停止っ!」と言う。
そうすると数秒だけ止まる。
でもすぐに同じことが始まり、わたしを追い越していってしまう。
だから、わたしは文章を書くようになった。
止まらない思考だけど、文字に起こすにはどうしたって時間がかかるから、
少しだけ緩やかにできる。
でも、文字にしてしまうとわたしの中の世界は、固まってしまう。
これは、純粋性が低いのだろう。
わたしはわたしの心の機微をそのまま受け取ることができていない。
キャリコンに大切なものは、
『共感的理解』『肯定的関心』『カウンセラーの自己一致(純粋性)』
である。
しかし、わたしは自分に対して純粋に受容してあげれない。
歪んでいる状態で、生きてきた。
認知の歪みの代表的なものは以下の6個であろう。
1)感情的きめつけ
2)選択的注目
3)過度の一般化
4)拡大解釈と過小評価
5)自己非難(個人化)
6) “0か100か”思考(白黒思考・完璧主義)
わたしは、ここが人よりも強く歪んでしまっているのだろう。
だから、何もできないでいる。
認知行動療法というものが、認知の歪みを治すために使えるものであるのだけれど、本も読んでるけど、自分には使えない。
何もかも否定されるのが怖いのだろう。
自分が今まで必死で生きてきたのがすべて間違いだったと言われそうで、怖い。
頑張ってきたことが、自分をより不幸にしてた、なんて言われるのは
誰もが怖いことであろう。
その感情をわたしは理解できる。
それだけで、強みにもなる。
ゆっくり、自分を素直に純粋に肯定できるようになりたい。
でも、わたしのそういう歪んでいるところがわたしなんじゃないかな。