ニュージーランド映画『ドライビング・バニー』:崖っぷちの暮らしの中で二人のヒロインたちが目指す場所とは?
* ある切実な過去を抱えたバニーの家探しの旅路
ニュージーランドから少しザラついた手応えの残る興味深い映画が届いた。"The Justice of Bunny King"という原題から分かるとおり、主人公はバニー・キングという名の女性。オーストラリア出身の名女優エシー・デイヴィスが演じている。
冒頭ではそのバニーが、朝の陽光を目一杯に浴びながら、信号待ちの車にサッと駆け寄ってフロントガラスを洗浄してジャラジャラと小銭を稼ぐ。満面の笑顔を浮かべて仕事に励む姿はとても躍動的だ。しかしその反面、このような仕事に従事せざるを得ない”特別な事情”があるらしいことがひしひしと伝わってくる。
そう、バニーは”とある過去”を抱えた女性だ。それが原因で、最愛の子供たちと離れて暮らすことを余儀なくされてきた。
今日もまた福祉局で親子の面会がセッティングされる。今のところ彼らはこのような形でしか会うことができない。担当者からは「一緒に暮らすにはまず、住居の確保が絶対条件。それが達成できて初めて申請が出せる」との通達。
言うのは簡単だが、現実は難しい。何しろニュージーランドではシングルマザーが子供たちと暮らすのに適したアパート物件が圧倒的に少ないのだ。バニーにとってはこの現状が非常に歯痒い。しかしどう憤ったり絶望したりしても、彼女の手ではなんともならない。
そんな矢先、居候先の妹家族の住居で”とある場面”を目撃し、彼女は瞬発的な行動に出る。その結果、住処を追い出されてしまうバニーは、やむなく場所から場所へと、彷徨い続けることになるのだが・・・。
* 「鍵」や「部屋」というモチーフから浮かび上がるもの
この映画ではたびたび「鍵」が登場し、バトンのように場所から場所へ、様々な形でイメージをつなげていく。鍵は間違いなく「家」の象徴なのだが、もっというと「空間」と言ってもいいのかもしれない。自分、あるいは自分たちが安心して過ごせる空間。
特別なことは望んではいない。贅沢も言っていない。人が最低限の自由を行使し、自らの安全を守り、そして親子が一緒に暮らしたいと願う。ただそれだけのための部屋なのに、獲得までの道のりはあまりに険しい。
邦題に「ドライビング」とあるが、実際に主人公がハンドルを握り締め車を走らせるのは中盤以降になってのこと。ただし、後から振り返ったとき「車」はこの映画の中でとても大切なファクターとなっているのは事実だ。
というのも、叔母のバニーと姪のトーニャは、嫌な匂いのなかなか取れないボロ車に乗り込みながら、いつしかカーステレオから流れる曲に乗せてありったけの感情をぶちまけ合う。その瞬間のなんと印象的なことか。いわば本作のハイライト。これほど生き生きとした二人は初めて見た。
決して母と娘の関係ではないものの、どこか彼女たちには擬似家族ともいうべき固い絆が見て取れる。本作ではなかなか「家」を手にすることができないが、「鍵」と「空間」といういずれもの条件をクリアした車の車内は、ほんの束の間の、まさに家のように安心できる空間が出現しているのである。
* 法や制度をものともせず、彼女が貫こうとした正義
自由を手にすべく走り続ける『ドライビング・バニー』がたどり着くのは、果たしてハッピーエンドか、それともバッドエンドか。始まりが福祉局であるなら、最後も福祉局だ。そして「鍵」と「空間」が変則的に描かれ、ここは非常にねじれた形での「家」となる。
その笑うに笑えない皮肉。だがこの映画には観客を決して絶望させない微かなユーモアがいつも吹き込んでいる。きっとこれはバニー・キングという人間の破壊のパーソナリティから自ずと吹いてくるものでもあるのだろう。
社会には制度が不可欠だ。しかし人が人間らしく生きる上で、最低限の自由を行使する上で、制度が人を守るためのものではなく、制度のための制度となっていないか。
本作はあくまでフィクションに過ぎない。しかし監督のゲイソン・サヴァットが映画化に向けてリサーチする中で、出会った多くの女性たちが「これはまさに私たちの物語だ」と口にしたとか。丹念に、かつ感情豊かに彩られたフィクションは時としてリアルと重なることがある。この映画にもその瞬間が確実にあったということだ。
そして原動力となったのはやはりこの人。名優エシー・デイヴィス。彼女がもたらす骨太でエネルギッシュな演技と、彼女に振り回されっぱなしのトーマシン・マッケンジーのコンビネーションを堪能してほしい。
現状はなかなか変わらない。巨大な壁に穴を空けることなんて不可能だ。でも二人の化学反応からは一筋の光が差し込んでくる。かぼそくて、まだ力もとないが、しかしそれは大切な光。私には確かにそう思えた。