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良い子の呪縛と、自己肯定感と被害者意識と子育ての話です。

30歳半ば過ぎ、良い子やめます。

良い子のままでいたい大人は読まないでください。


良い子の定義って何だと思いますか?

「大人しくて良い子だね」

「泣かないで良い子だね」

「言われたこと守って良い子だね」

「ジッとしてて良い子だね」

30半ばを過ぎた最近になって、これまで「良い子である」ことの呪縛を受けていたことに気づきました。


人に良く見られたくて


人にどう見られるのが気になって


人からどう思われているか気になって


良い子の方が良いに決まっていると思い込んで


人の評価を気にしていたことに改めて気がついたのです。


良い子であろうとする呪縛が、どういうことになるか。

それは…

・他人の言動や態度が気になる。

・何か言われると自分が悪いと思ってしまう。

・失敗をしたくない、失敗が怖い。

・相手が不機嫌だと自分のせいじゃないかと思う。

・他人にも自分と同じ気遣いや配慮を求める。

・気遣いや配慮のない人が許せないことがある。

・ルールを守らない人が許せないことがある。

・他人を裁いてしまう。

・自分に自信がない。

・自分の一番大事なものが分からない。

・自分の価値や自尊心が相手次第になっている。

・他人からの拒絶を予想しつつ生活してしまう。


良い子であろうとすること。

それは相手からの反応や評価を前提としながら生きてしまい、自分の価値や自尊心を相手に依存し、それを安定として求めてしまうことです。

こういった人々に多いのが、

被害者意識が強い

自己肯定感が低い

依存性が高い

プライドが高い

自信がない

やりたいことが見つからない

承認欲求が強い

といった傾向が強いことです。

私はどれも当てはまっていました。

そして、自分がかなりこじらせていたことに今更になって気づいたのです。

こじらせ具合で言えば、良い子の真逆の存在である悪い子の方がよっぽど素直で自分自身に正直に生きているのです。

都合の「良い」こと


これに気づいたのは子育てをする中で、子育てにおいて本質的で大切なことは何かと考えていた時でした。

我が家では、子育てにおいて大切なことは以下の3つと決めました。

  • 子供を1人の人間として対等に扱うこと。

  • 子供の行動ではなく子供の存在を認めて褒めること。

  • どんなことをしようと、どんなことがあっても、受け入れること。

子供だからと言って、全てを導いて教えるなんてことは必要ないのです。

子供を親のエゴで導いて教えて小言を浴びせ評価をしていると、子供は何か評価されることや褒められることをしないと自分の価値が認められないと思い込むようになり、自分の存在を他人の評価に委ねて依存させるようになります。

〇〇をして「良い子だね」と褒めることは、親にとって育てやすい子に調教させていくことに他ならないのです。

子供にとって「良い」のではなくて、親や社会にとって都合が「良い」のです。

親や社会にとって都合の「良い子」のままでいると、いつか何らかの形でこじらせることになります。

これまでとても良い子だったのに、「突然言うことを聞かなくなりました」とか、「不登校になりました」とか、「学校で何か悪さをしているようなんです」とか、よく聞くセリフですよね。

他にも暴力をふるようになったり、逆に塞ぎがちや引きこもりになったり、病気になったりすることもあります。

子供が変わってしまった、おかしくなった、悪い子になった、と思う親御さんも少なくないはずです。


今一度考えてください、それは違うのです。

その変化を何らかのメッセージだと思い、受け止めることが重要なのです。

親の思い通りにならなくなったことは悪い子になったのではありません。
それは単に親にとって都合が「悪い」子になっただけです。

子供は勇気を出して何らかの自己主張をしているかもしれないと、そのメッセージを成長として受け止めることが重要です。

親として出来ることはそれだけ、他にできることは何もありません。

子供を親や社会にとって都合の「良い」子にしないように、子供にとって本当に大切なことを教えてあげるのが親の務めだと私は考えています。

子育てにおける「良い子」破りは親の関わり方が非常に重要なポイントです。

私自身の過去は、、

私は幼少期の記憶が全くと言っていいほどないのですが、よく母から聞くエピソードがあります。

とあるパン屋さんに入った時、母からここで待っててと言われた幼い私は、そこから歩き出すこともせず微動だにしなかったそうです。
店主からも全く動かなくてロボットみたいだね、と言われたそうです。

幼少期から言うことを聞くことが私にとって当たり前になっていたのではないかと思います。

また中高生になってからは姉と母がよくヒステリックなケンカを繰り返していたので、自然と弟である自分は良い子でいようと我慢する事がクセになっていたこともあるかもしれません。

最近になって、自分の思っていることを母に告げると「私の子育てが間違ってたのかな〜」と母は少し困り呟いていました。

子育てに間違いなどはありません。

育て方を間違えた、という事は子供自身を否定してしまうことになります。

そうではなくて、
子供は否定して欲しいのではなくて、ただ受け止めて欲しいのです。

親と子供の考えていることが一緒、ということなんて到底あり得ません。むしろ違くて良いのです。子供だって色々考えて成長しているのです。

自分の子供であれ、対等で公平な1人の人間として違いを受けいれること。

そして、その子供が自分の価値を自分で決めて、際限なく自分を信じて、行動することができるように一緒に成長していくことが親にできることではないかと考えています。


しかし、大人になるまで解消できなかった良い子」型人間は、いったいどのように染みついた「良い子」を破り捨てることができるのか。

どうすれば染みついた「良い子であること」の呪縛をほどけるのか?

まずは自分がその状態であること=良い子であろうとしてることを気づく思考になることがはじめの一歩なのですが、、

認知バイアスという言葉もある通り、長年染みついた思考や認識のパターンを変えることはかなり難しいことです。

しかし、いつ始めても遅いということはありません。

まずは、自分が良い子になろうとしていることに気づくこと。
自分の見たくない部分、弱い部分を誰かに共有すること。
共有した結果のフィードバックをもらうこと。
それを続け習慣化すること。
まずはこのことを肝に銘じましょう。


良い子であろうとすることに、思い当たるふしがある方もいるのではないかと思います。

でも深く考えず見なかったことにしていた方や、心の奥でザラついた気持ちがあったけどそのままにしていた方もいるのではないでしょうか。

夫婦や家族など、親しい人間関係でイラついたり傷ついたり摩耗したりしているときは、特に自分自身を見つめ直すいい機会となります。

夫婦や家族で互いに心ない言葉をかけあうこともあるでしょう。

そう言った時は大抵の場合、言葉を発した側と受け止める側の間で認識の相違があります。

ケンカなどがひと段落した時に、自身が不快に感じ神経を逆撫でされた言葉の真意を相手に聞いてみてください。

実は自分が根に持っているほど、その言葉に相手は意味を込めていませんし、ましてや覚えていないことも多々あります。

心の琴線に触れた言葉というのは、自分が持つ心理的フィルターを通して自分に届いているのです。

自分が感情的になるのは、自身の何かしらのトリガーが発動しているためであり、相手のせいではないのです。(←ここ重要)

「何もしないくせに」
「何にも考えてないくせに」
「私ばっかり」
とか
「本当は受け止めて欲しかっただけなのに…」
「認めて欲しい」
「褒めて欲しい」
とか

承認欲求、被害者意識、支配欲求、劣等感、自己顕示欲、嫉妬心...etc

これは自分の深い心理の見たくない部分でもあり、弱い部分でもあります。

人の心理や感情の奥底にはあらゆる欲求や無意識が存在していて、ことあるごとに顔を出して感情を揺さぶってきます。


そんな時は自身がどんなことで感情を動かされているか冷静に検証してみましょう。

そして、その時どのように思い、どのように感じたかを相手に共有して受け止めてもらってください。(←ここも重要です)

特に夫婦や家族間では、きちんと伝えて受け止めてもらう事で、ケンカのモヤモヤはスッキリするのではないかと思います。

(主に夫婦主体の話になってしまいましたが...)

つまりは、

子供の時に「悪い子」であっても親に受け止めてほしかったことを、

今大人になってから、誰かに自分の正直な思いを受け止めてもらうことで、

「良い子」型人間を脱却していくことが出来るのではないかと考えます。

もちろん、自身の親が存命で話すことが出来る人は良い機会だと思い、腹を割って話してみるのもいいと思います。


相手に伝わらないからと我慢するのではなく、

良い子であろうと無意識に自分を抑えてしまうのでもなく、

溜め込まずに自分の感じた事を吐き出すこと。

自分の無意識のフィルターに気をつけること。

ネガティブな感情的になる時は自分の心理を振り返ること。

その上で自分が感じたことを表現・アウトプットすること。

吐き出したものを相手に受け止めてもらうこと。

その相手からフィードバックをもらい、調整していくこと。


それを習慣化してみてください。


"人間は見たいものしか見ない"

と紀元前に生きていたユリウス・カエサルも言っていたようです。

2000年以上前から人間は変わらず、見たくないものは見ないという心理が働いていたのです。

人間は誰しも自分の弱い所を見たくはないものですが、弱点を知らないと成長は出来ません。

きっとカエサルも見たくないものを見て葛藤したがゆえに、この言葉が生まれてきたのでしょう。

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