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縁起について話そうと思う。

12月の虹園が始まりました。
申し訳ありませんが、今年はお正月飾りをやめました。
やめた、と言うのは多少語弊がありますが
誤解を恐れずお伝えするならやめました、で間違いないかと思います。
年の瀬が近づくと毎年“縁起物”と騒いでおります虹園ですが、
少し前から“縁起物”と口にする度に
なにか瞬間躊躇うような、小さな違和感を抱くようになりました。

ご存知の方も多いことですが
昨年から個展を開催させていただくようになり
わかりやすく言うところの“商品”という活動に加えて
“表現”にも注力するようになりました。
すると今まで以上に内観の時間が増えました。
表現するってやっぱり自分自身を表すことになるのでしょう。
その中で、それに伴って、と言えるのでしょうけれど
自分を知るような事象がたくさん起きました。

今年はたくさんの大切なものや人や事柄との別れがありました。
今でもまだ整理しきれないこともあります。
これを書きながらもまだ涙が溢れてきてしまう程です。
別れがあるから出逢いがある、と言いますが、
新たな出逢いが別れを帳消しにするわけではなく
確実に積もります。
だから芸術があるんだ、と教えてくれた人がいました。
今はその言葉に救われて、以来
その全てを表現に還そうという気概で、その瞬間だけはより世界線が曖昧に感じられることもあって、逃げ込むような気持ちで没頭していたかもしれません。

その中で

ふと
いつも多用していた“縁起物”という言葉が気になりました。

多用したいたくせに恥ずかしながら
ニュアンスでしか使っていなかったことに気づきました。
ラッキーアイテム?
験担ぎ??
なんか調子良さそうな??
くらいの。
あれ?今更ながらそもそも“縁起”ってなに???

何とか息継ぎをしながら溺れてるのか泳いでるのかわからないような無様な格好で、
表現することだけを頼りに生きていた今年を過ごして
年末に差し掛かるにつれ
いつもいい加減に吐いていた“縁起”という言葉が
急に私の肩を掴んで揺らしてくれたような気がしました。

改めて調べてみました。
みなさんは、“縁起”って言葉の意味を
調べたことがありますか?

“縁起”とは
縁って、起こる、と書きます。
これだけでも急に解像度があがるとともに
世間一般で常用されている“縁起物”の由来になる感じとは
ズレを感じますよね。

縁起、とは実は仏教用語。

すべてのものにはそれを産んだ因と縁があり、
それを因縁生起すなわち縁起という。

たとえば
お花の球根を原因とするならその花は結果ということになります。
花が咲くまでには温度や土質、水分や肥料、日光、また人の手による手入れなど様々に条件が重なって花が咲くその過程の部分が縁ということ。現実に現れる時までに、因と縁と果が複雑に関係しあって影響しあって、もちつもたれつの状況をつくる。

というのは西本願寺さんのサイトに載っていた易しい説明です。

しかし、“縁起”を辿ると仏道に踏み込んでいくようです。

大乗仏教諸派全体の祖とされるナーガールジュナは、縁起についてこんな風に説きます。

西本願寺さんの説明にあった「一切は縁起(原因)によって起こる」という因果関係ではなく、相互依存の関係として捉えるようです。

これは、
「一切の事物は他の事物との相互依存関係によって成り立っている」という考え方です。

例えば、「親子」は相互に依存しあってセットで成立します。
こどもが生まれて初めてその子の親となり、親のもとに生まれて初めてその親の子となる、というように、
お互いがお互いを成立させています。
「長い-短い」も、長いがなくて短いはあり得ません。
短いがなくては長いもあり得ません。
お互いに依存しあってセットで成立しています。

つまり一切の事物は縁起つまり関係性によって成立します。

ただし、関係性という視点から見たときに、
永遠不変ではなく、変化したり消滅してしまう事もあり得ます。
ものの見方や世界観は時代や場所、或いは人それぞれに異なるものだからです。
つまり、その縁起が変化すればその事物も変化し、縁起がほどけてしまえばその事物も消失してしまうということもあるわけです。

これを俯瞰でみた時、すべての事物はある縁起によって仮に成立している、一時的に成立しているものという事になります。
それはまるで海にできる渦や波のように。
大きな海でみれば海ですが、海の中にできた渦や波には実体がありません。地形、気温、その時の潮の流れやその他様々な条件によって産まれては消える渦や波は、一時的にそこにあるだけです。
つまり事物、それ自体では本質、意味、といった「自性」を持たない、「無自性である」とナーガールジュナは説きます。

そこで出てくるのが
“空”という考え方ですが、
ということはつまり“空”は、“ない。”のではなく、成立しうるあらゆる縁起や意味の可能性を孕んでいる、ということになります。
すべては縁起によって成立しているから無自性であり、一切が無自性であるから世界は空という事になる、という。
人が自分の意思で縁起を結ばない限り、空そのものには「夢」も「希望」も「絶望」も「苦」もありませんが、またそれをすべて孕んでいる状況でもある、ということでしょう。

と、ここまで調べて、あれれれ??!

これって私が個展の作品を纏めたアートブック『むすびを繙く随想録』に書いたことと重なりがすごいです。

つまるところ、
ノリで使っちゃっていた“縁起物”という言葉でしたが
これまでむすびの中から様々に紐づいた事柄を調べて研究していくうちに
本当の意味での“縁起”という部分をも気づかぬうちにからだに落とし込んでいた、ということみたい。

てことで、一周回って
私の作品は正真正銘の“縁起物”。
見た目が賑やかなお祝いの体をなしてなくても
本来の“縁起”を意識してつくっていたものだった、ということが
わかったよ、って話と相成りました(笑)

産まれてくれて、ありがとう。
出逢ってくれて、ありがとう。
この一時的な大きな海の中の渦のように
見えていても見えてなくてもそこにあるってこと。
想いが縁起をつくることを教えてもらいました。
すべてのことに感謝しかうまれないですね。
こーなってくると今見えてるこの世界もひいては自分自身も
在るのか無いのかわけわかんなくなるし、
どっちでもよくなるし、
私はあなたであなたも私ってことになるから
すべてはひと繋がりってことでしょうね。

今日の話はとうとう目ぇ回りそうっすね笑。

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