学校公演の意味とは(すべての公演に行く人へ)
私はバレエの公演をよく見に行く。
最近よく見聞きするのが、学校公演。
中高生あたりを相手に、カンパニーが学校へ赴いたり、学校側が生徒を引き連れて劇場にやって来たりする。
後者はいわゆるスクールマチネというやつで、その回のチケットは一般発売がなかったり、あっても僅少で購入サイトに注意書きがあることが多い。
私も中学生の頃に、通っていた学校の芸術鑑賞プログラムでバレエやお芝居、人形浄瑠璃などの公演を観たことがある。
こうした取り組みが持つ意味の一つには、生徒たちが、劇場(あるいは会場)で公演を観るとはどういうことかを、学校公演という比較的閉ざされ、守られた場で体験することができる点にあると思う。
生徒の中には、その公演に興味がある人もいればない人もいる。
人には好みがある以上それは当然のことだし、何なら自分でチケット買って来ているはずの通常公演ですら、あんまり興味のなさそうな客を見かけることがある。
あくまで持論だが、学校での事前学習で最低限の説明(ストーリーや歴史など)を聞いてくれさえすれば、公演自体を真面目に鑑賞しようがしまいが大きな問題ではないと思う。
ハマる人は学校公演という機会がなくたっていずれ出会うだろうし、興味がない人に鑑賞を強要して嫌いになってほしくないからだ。
わからなくたって楽しめなくたって別にいいし、それは鑑賞者の落ち度ではない。
それよりも大切なのは、実体験を通じて劇場内の最低限のルールを知り、それが何のためにあるのかを学ぶことだと思う。
例えば、上演中は私語厳禁、衣擦れや音を立てる衣類、アクセサリーは避ける、ビニール袋など所持品も同じく、スマホの電源は切る、席から乗り出したり周囲の視界を妨げない、など、劇場で公演を鑑賞する誰もが知っている(べき)決まりごとである。
芸術界隈は客のマナーにうるさいだとか、こんな客がいて迷惑だったとか、SNSで度々(ネガティブな)話題になることもあり、そうしたやりとりを見て劇場を敬遠する人がいることも仕方がないという気もするし、とても残念でもある。
私自身は、こうしたルールは必要があって存在しているものだと思う。
観劇体験はひとりひとり自分だけのものであると同時に、公演そのものは、観客を含めその公演に関わるすべての人たちで共有するものだからだ。
劇場はすべての人に開かれた場所であるからこそ、そこにいる全員が充実した体験を得るためにルールやマナーがあるのだと思っている。
舞台は生物だ。
キャスト、衣装、装置、スタッフ、何から何まで同じだったとしても、2つと同じ公演はない。
それは観客側も同じことで、価値観や心情、境遇によって受け取るものが変わるのは至極当然だし、だからこそひとつの公演でも人によって感想が違うのも観劇の面白さと言えるかもしれない。
習慣や仕事として劇場を訪れる人、カンパニーや芸術を心から愛し応援したいと思っている人、仕事や生活の中でつらいことがあって、救いを求めて足を運ぶ人もいれば、昔年の思いが叶ってようやく手に入れたチケットを持って来る人もいるし、何かのきっかけで興味を持ち、勇気を振り絞って来て運命の出会いを果たす人だっている。
見ず知らずの他人が集まって、決して短くない時間、その空間にとどまって公演をシェアし、終演後はまた各々の生活に戻って行く。
そう考えると、1回1回の公演の価値は計り知れないものだし、上演や他人の観劇体験を邪魔していい理由などどこにもないのだと思う(もちろん主催、運営側による安全、防災上などの場合は除く)。
話を戻すが学校公演の事前学習では是非とも、上演作品について知るだけではなく、こうした観客としてのあり方を考える機会にしてほしいと思う。
それが人生最初で最後の観劇になるとしても、気づきを得る人はいるだろうし、もし得られたのなら、それはその人にとって大いに意味のある体験だったと言えるだろう。
芸術に限らず、あるものを愛する人もいれば全く惹かれない人がいることも、興味がないからと言って自分が好きなもの以外を無価値と切り捨ててよいわけではないことも。
私自身は、劇場文化の永続と発展を切に願っています。