先輩とチョコレートブラウニーの思い出
チョコレートブラウニーはわたしにとって縁深いというか、特別なお菓子。
中学生の頃、オーストラリアにホームステイした時にホストマザーが作ってくれた。
江國香織さんの大好きな小説『こうばしい日々』にも登場する。母からもらった思い出深い一冊だ。
家に子供向けのお菓子作りの本があり、ブラウニーの焼き方も載っていた。
オーストラリアのママはオーブンで焼いていたが、この本の作り方ならオーブントースターでも焼ける。思ったよりも簡単だった。
こうして、毎年バレンタインにはチョコレートブラウニーを焼くようになった。
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高校2年の夏の終わり、美術部に入った。文化祭で美術部の展示を見に行った時に中学時代の先輩に誘われたのだ。
中学校で所属していた美術同好会はオタクの溜まり場みたいなものだったけど、高校の美術部は違う。美大受験を目指して本格的に技術を磨く人たちがほとんどだ。趣味の延長レベルで油絵を習うわたしのような部員は稀だった。
他の部活の3年生は夏を過ぎれば受験に向けて引退するけれど、美術部の3年生はそれからが追い込み。大学入試の実技試験に向けて、秋になっても冬になってもずっと部室で制作に励んでいた。
そんな先輩方の中で、ひときわ異彩を放っていたのが研斗先輩だった。
つかみどころのない、飄々とした佇まい。長めの前髪にゆるっと着崩した制服が、校則の厳しいうちの高校にはあんまりいないタイプだったから目を引いた。ちょっとやんちゃな風貌が美術室に似つかわしくない。
口数の少ないミステリアスな美少年で、デッサンの腕は天才的だった。
部室で先輩の姿を見かけるとやっぱりドキドキした。恋と呼べるほどのものではなかったけど、憧れの気持ちは確実にあった。
先輩も寡黙だが、わたしも人見知りが過ぎてほとんど話したことがない。そんな先輩と唯一まともに言葉を交わしたのがバレンタインだった。
この年もわたしはチョコレートブラウニーを焼いた。
放課後、部室で実技試験対策に勤しむ先輩方ひとりひとりに配ってまわった。もちろん研斗先輩にも。
「先輩、これ、バレンタイン……なんですけど」
やっぱり緊張しながら、水色のリボンでラッピングしたブラウニーを差し出した。先輩は水色が似合う気がしていた。
「あ。ありがとうございます」
初めてまともに会話した。先輩なのに、敬語。
先輩はブラウニーを受け取ると、目の前で開けて食べてくれた。まさかその場で食べてくれるとは思わなかったから驚いた。
わたしはどうしていいのかわからず、ただドキドキしながら先輩を見つめていた。
先輩のお口に合うだろうか。甘すぎないだろうか。ちゃんと焼けているだろうか。
クラスの友達には好評だったから大丈夫だと思っていたのに、いざ目の前で憧れの人が食べるとなると途端に心配になってくる。
「おいしいです」
先輩はこちらに視線を戻すと、そう言って微笑んでくれた。
先輩の笑顔を初めて見た。かわいかった。心臓が跳ねたのが自分でもわかった。
ブラウニーというお菓子が、またわたしの中で特別になった瞬間だった。
……たったこれだけ。進展も何もない。でもなんだか、思い出すと今でもちょっときゅんとしてしまう。
まだ恋になる前の、淡い憧れの気持ち。憧れの人に手作りのお菓子を食べてもらえた喜び。美味しいと言ってもらえた幸せ。
そんな青春が自分にもあったことを思い出して、なんだか嬉しくなるのである。
今年は久しぶりに、チョコレートブラウニーを焼いてみようか。
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↓チョコレートブラウニーが登場する江國香織さんの小説です。