ひやむぎに思う幸せ論
こんにちは、奏葉です。
気付けばこうしてnoteを綴るのも、随分久しぶりになってしまいました。
8月も後半になり、最近は少しずつ秋が近づいているのを感じますが、
どうしても夏のうちに文章にしておきたいと思っていたことがあったので、今回はその話を書いてみようと思います。
ということで少し季節感がずれている内容ではありますが、今日は「 ひやむぎについてこの夏感じたこと」について語らせてください🌻
突然ですが、皆さんは “そうめん” と “ひやむぎ” の、どちらが好きですか?
…と言われても、そもそもそうめんとひやむぎの違いって何??と疑問に思う方もいらっしゃると思います。
そこで調べてみたところ、そうめんで有名な揖保乃糸のサイトにこんな文章が載っていました。
ということで、どうやらそうめんとひやむぎの違いはその「太さ」にあるようです。
私もずっと両者の違いを知らず「ひやむぎ=そうめん」だと思っていたので、今回この事実を初めて知ってかなり驚きました。笑
(しかもうどんまで同じものだったとは…!笑)
そして、さらに両者の違いについて調べてみたところ、私は知らず知らずのうちに片方を好んで食べていたことも発覚しました。😳
というのも、夏になると我が家の食卓に並ぶ、私が大好きな麺類はこんな見た目をしていたからです。
…察しの良い皆さんはもうお気づきだと思いますが、この麺類の特徴は、「数本だけピンクと緑の色付きの麺が入っている」ということです。
(幼い頃の私にとって、この数少ない色付きの麺は、何だかとってもワクワクする特別なものでした💭)
そして、今回この「色付きの麺」について調べてみると、単に見栄えを良くするためのものではなく、れっきとした役割を持った存在だということが分かりました。
サイトによると、色付き麺は ”そうめん・ひやむぎ・うどんの3種類を間違えて売ってしまうことを防ぐための目印で、中間の太さの「ひやむぎ」のみに入っている" ということだそう。
…ということで、実は私が毎年食べていたのはそうめんではなくひやむぎで、
知らないうちに私は確固たる「ひやむぎ」派になっていた、という訳です。
どうでも良い話で申し訳ないのですが、このことも私にとっては今回初めて知った驚きの事実でした🙄笑
随分前置きが長くなってしまいましたが、ここからは上の内容を踏まえて本題に入りたいと思います✏️
冒頭にも書きましたが、この夏私には、
ひやむぎに「幸せ」について考えさせられた、2つの出来事がありました。
①百貨店のひやむぎと私
遡ること1ヶ月、私は某百貨店の食品売り場にいました。
その理由は、祖母に「冷凍カシスが欲しい!」と言われたから。
どうやらテレビ番組で "カシスにはブルーベリーよりも遥かに多く目に良い成分が含まれている" ということを聞いたようで、どうしても冷凍カシスが欲しくなったそう。
あいにく孫は怠惰なので、
「もはやブルーベリーとの違いもよく分からないのに、わざわざ電車に乗って買いに行くなんて面倒くさいな…」と思ったりもしたのですが、
何せ日頃からお世話になっている祖母なので、つべこべ言わずに百貨店に向かったのです。
そしてたどり着いた食品売り場で何なく冷凍カシスは見つかったのですが、レジに向かう途中、気になるものを見つけました。
ピンクや黄色、緑色など、何やらカラフルな棒状のものが束になって棚の上に並んでいるのです。🌈
近づいてみると、それは色付きのひやむぎでした。
しかも各色ごとに個包装されて、ピンク色なら梅味、黄色ならゆず味、など色に合わせて味までついています。
この光景は私にとって、幼い頃の夢を具現化したものだったはずでした。
幼い頃は「いつか特別なピンクや緑のひやむぎをいっぱい食べたい!」とよく思っていたし、今の私にとっても色付きの麺は、やはりまだ何となくワクワクをくれるものだったからです。
でも、いざその特別な存在がぎゅっと詰め合わさったものに直面した時、私の心は全く動きませんでした。
本来ならもっとワクワクして、食べてみたい!と思っても良さそうなものなのに、私はそのカラフルなひやむぎに全く惹かれなかったのです。
そのことに驚いて理由を考えたとき、私は
「たくさんの白いひやむぎの中にほんの少しだけピンクや緑の麺が入っていたからこそ、私はあの色付きの麺に心が躍ったんだ」ということに気づきました。
そして同時に、それは自分の人生に置き換えても同じことが言えるな、と思ったのです。
ピンクや緑のひやむぎの束のように、もし私の人生が毎日楽しいことで溢れていたら、きっと私は楽しいことを楽しいと思えなくなってしまうと思います。
でも実際はそうではなく、
時には味気ないと感じてしまう、そんな同じような毎日のなかで、
たまに楽しいことや幸せなことに出会うからこそ、
その瞬間がぱっと輝いて、心が躍るのだと思うのです。
結局私が感じたことはありきたりな話なのかもしれませんが、
楽しいことばかり起きない現実の日々の中でも、
「今日は白色のひやむぎの日か😕」
「今日はピンクのひやむぎに当たった!😆」
なんて思えたら、
何の変哲もない日でも、その日を過ごすことに意味があるのだと思えたり、
少しだけ楽しい気持ちで日々を過ごせそうだな、なんて思ったのです。💭
②家でのひやむぎと私
もう1つの出来事は、家でお昼ご飯にひやむぎを食べていた時のこと。
祖母と2人で1つのお皿に盛ったひやむぎをつついていたら、ふと祖母がこんなことを言ったのです。
「もうかなちゃん(祖母は私のことを名前の上2文字で呼ぶのです)はこんな年になったけど、
やっぱり一緒にひやむぎを食べるときは、色付きの麺を残しておいてしまうね。」と。
思えば、祖母と2人でひやむぎを食べる時はいつも、色付きの麺が最後に残っていました。
でも今までそのことについて深く考えたことはなく、
好きなものは最後に食べたい派の私は、
「わーい、色付きの麺残ってる!」くらいの気持ちで、残りの麺をぱくっと食べていました。
しかしそれは、祖母の優しさだったのです。
祖母は、私が特別だと思っているものを分かっていて、それを認めてくれて、取っておいてくれていた。
そのことに気付いた時、何だか涙が出そうになりました。
私が当たり前のように思って受け取っている幸せの裏には、私のことを思ってくれている誰かがいる。
これまでの人生でもきっと、私が「楽しい」「嬉しい」と感じた時には、必ずそれを支えてくれた誰かがいたのだと思います。
でも、その中には私が気が付くこともできず、感謝の気持ちも持てないまま通り過ぎてしまった人達もたくさんいたのでしょう。
そう思うと、何とも言えない気持ちになるのです。
私はこの年になるまで気が付けなかったことがたくさんあります。
以前の投稿でもちらっと書いたことがありますが、
私はかつて、両親がいない家庭で育った自分のことを不幸な人間だと思っていました。
そんな私は10代後半になっても、幼い頃から自分の心を巣食っていた「寂しい」「誰かに満たして欲しい」という底なし沼のような感情をうまくコントロールすることができず、
「自分はこんな風に育ってきたのだから仕方がない」と自分を甘やかし、誰かに愛情を求めることを正当化して、周りの人を傷つけていました。
そしてきっとそのことは大なり小なり祖母にも伝わってしまっていて、
私の知らないところで祖母は何度も悲しい思いをしていたのだと思います。
そのことを考えると、祖母には謝りたいし、もっと感謝の気持ちを伝えたいし、ちゃんと親孝行したいなと思うのです。
そしてもし将来、私が誰かと結婚して自分の子どもに出会うことができたなら、今度は私がその子に色付きのひやむぎを残しておいてあげたいな、なんてことも思います。
祖母がずっと、私にそうしてくれたように。
以上2つが、私がこの夏考えた「そうめんに思う幸せ論」でした📖
タイトルが壮大だった割に、大したことのない内容ですみません…笑
そして久しぶりの投稿だったからか、今回はいつにも増して「なかなかうまく文章が出てこない…!!」という感覚と闘いながらnoteを書いていました。
言葉は生き物だ、というフレーズはよく聞く気がしますが、やっぱり文章も定期的に書くのが大事なのかな、なんてことを痛感しています😖
ずっと頭を占めていた就活もようやく終わったので(結果が出るのは10月末ですが、、笑)
今後はもう少し定期的に文章を書いていけたらいいな。
長くなってしまいましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございました☺️
少し涼しくなってきた晩夏の夜、ゆっくりお過ごしください☕️
P.S.