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「蝶」石川桂郎


 “それは二度思い出すことのむずかしい、美しい声であった。”
 (石川桂郎著『剃刀日記』より「蝶」)

 石川桂郎(明治四十二-昭和五十)は父親の理髪店を継いで床屋を営んでいましたが、文才があるので文筆家に転向し、小説と俳句で活躍しました。『剃刀日記』はそんな桂郎の短編集です。知らずに読めば床屋時代の体験談と思いますが、実際はほとんどが虚構とのこと。

 桂郎の文体は樋口一葉や泉鏡花を思わせる雅文調の調子があります。しかし俳人としての性質ゆえか、明朗さと俳諧味も加わって、独特な趣きをなしています。

 そんな文体に「蝶」という作品は相性が良かったようです。作品の舞台は大正か昭和初期ごろと思われます。江戸時代の余韻を色濃く残すお屋敷に桂郎が呼ばれて、奥座敷に鎮座する年頃の御姫様に剃刀を当てる話です。近代日本に取り残されたミステリアスな武家社会が、桂郎の文体によって玄妙に浮き上がってきます。

 “突然障子越しに槍先の飛び出しそうな” お屋敷の雰囲気や、“動くと匂いこぼれるような美しさで座っている” 嫁入り前のお姫様の描写に引き込まれました。

 桂郎はお屋敷の老婦人や女中たちの視線を背中に感じながら、硬くなってお姫様の顔を剃ります。“お姫様は膝が埋る程厚い座布団の真紅の中で” ひとことも喋りません。その張り詰めた部屋にとつぜん「 蝶 」と言う声があがりました。お姫様の声でした。庭から座敷へ蝶が舞い込んだのです。“それは二度思い出すことのむずかしい、美しい声であった。”

 二度思い出すことのむずかしいほどの声は、読者の想像のうちにしか成立しない小説ならでは境地です。川端康成が『雪国』に書いた “悲しいほど美しい声であった。” を思い起こします。実写化して現実の俳優の声をあてれば、たちまち崩れてしまう感覚の世界です。それでももし自分が監督だったら、お姫様や葉子の役を誰にやってもらうだろうと想像するのも愉快です。

 さて、桂郎はお屋敷に呼ばれた後日、自分の店の前を白無垢姿のお姫様が自動車で運ばれていくのを見ました。お嫁に行くのです。作品は、白粉に塗り潰されたお姫様の顔を見て湧いた、桂郎の意外な印象で締めくくられます。その感覚が、夢幻のようなお屋敷の体験を現実世界に押さえつける重しとなって、作品の手触りを鮮明に仕上げる次第です。

 この短編集では冒頭の「蝶」が断トツで佳いとおもいました。一方で文体の読みにくさが際立ってしまう作品も少なくありません。対象と文体との相性があるようです。女性の艶を描くときに、桂郎の耽美的な筆使いがもっとも本領を発揮します。

 後書きによれば、「蝶」をはじめとした評判の良いいくつかの作品は、初期の頃に生まれたとのこと。そして桂郎自身にとって初期作品は「技巧に走りすぎた」として気に入っていないようです。書き手と読み手の好悪は一致しないことが少なくありません。それも創作の妙味ではないでしょうか。

 それにしても、場末の床屋さんからこれほどの文才が生まれるのは興味深いことです。石川桂郎は作家として後世に名を残す機会を得ましたが、世間には人目に触れることなくこの世を去っていく市井の天才も潜んでいるに違いありません。襖の奥にひっそり暮らす、あのお姫様のように。

 遠蛙酒の器の水を呑む 桂郎



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