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冬帽子


 私は帽子屋に来た。しんとした昼下がりの薄明に、埃をうっすらとのせた冬帽子が並んでいる。店に人影はない。
 「ごめんください」
 カウンターの前に立って私は呼びかけた。声は壁に跳ね返って自分に聞こえるだけだった。あまりに静かなので自分の声を聞いてなんだか恥ずかしくなった。そうしてその場で立ち尽くしていた。
 私が帽子屋に来たのはほんの数日前に帽子をなくしたからである。その帽子がどこにあるかは分かっている。しかし訳があって取りに行くことができなかった。
 四、五日前に私はK氏と□□駅で落ち合った。K氏とは初対面で、あるめぐり合わせから事業上の話し合いのために会食をすることになっていた。K氏と挨拶を済ませると、駅からほど近くの手頃なカフェーに私たちは席をとった。そうして昼の定食に箸を運びながらよもやま話をした。
 私はいつもの早食いを努めて抑え、先方との調和を図った。しかし私が食べ終えたとき、K氏はまだ三分の一も進んでいなかった。私は水を飲みながら、K氏の食事の邪魔にならないようにぽつりぽつりと話の穂を継いだ。
 私のコップの水がなくなった。K氏はまだ半分も進んでいなかった。
 「私、食べるのが遅いものですから」
 こちらの手持ち無沙汰を悟ったK氏が気遣って言った。
 「ごゆっくりどうぞ」
 私が答えた。
 「多かったら残してくださいよ」
 そう付け加えた。K氏はもぐもぐと頬張りながら眩しそうな眼をして頷いた。
 一時間が経った。二時間が経った。そうしてかれこれ三時間が経過した。不思議とK氏の食事は減らない。しきりに箸と口とを動かしているように見えるけれども、皿の上がさっぱり片付かない。私はついに痺れを切らして先に店を辞した。事業の話題も尻すぼみに立ち消えてしまった。
 家に帰ってから、私はカフェーに帽子を忘れて来たことに気がついた。しかし取りに戻るのもK氏にまた出くわすのも億劫なのでそのままにしていた。
 三日経ってから、私はどうもK氏のことが気がかりになって来た。K氏はその後どうしたろう。食事を最後まで平らげたのだろうか。何時間かかったのかしらん。その後K氏から連絡はない。私はもう一度あの店に行かなければ、いつまでたっても私の中でK氏の食事風景が消えない気がして、帽子を口実にカフェーへ向かった。
 カフェーは今日も営業していた。扉をあけて三日前に私とK氏が座っていた奥のテーブルへ足を向けた。テーブルには食べかけの皿が載っていた。私は一瞬、まだK氏が食べ続けている景色が浮かんだが、すぐにその妄想を現実的な考えで塗りつぶした。客が帰ったばかりのテーブルに皿が残されているに過ぎない。私は帽子のことを店員に聞こうと振り返ると目の前にK氏が立っていた。
 「これはどうも。いまお手洗いに立っておりました」
 K氏は眩しそうに眼を細めて言った。私は「あぁ」としか返せなかった。K氏はハンケチで手を拭き拭き席について、ふたたび箸を持った。
 「どうも私は食べるのが遅くて」
 両頬を膨らませながらK氏はこちらを見た。
 私は店を飛び出してまっすぐ家に戻った。家に着くまで帽子のことも忘れてしまっていた。しかしもうあの店へ行くことは出来なかった。

 「ごめんください」
 私はもう一度帽子屋の奥へ向かって声を出した。すると
 「はいぃ」
 と女の声がした。カウンターの脇の戸口からエプロンをした中年女が顔を出した。
 「あの、帽子を買いに来ました」
 「ごめんなさいね。主人がちょっと手を離せないものですから」
 「ご主人はお取込み中ですか」
 「えぇ、そのちょっとお客さんが途絶えたものですから」
 「はぁ」
 「ちょっと待っててくださればすぐに戻りますので」
 戸の奥からカチカチという皿の音が届く。ずずずっと汁を吸いこむ音が聞こえる。
 「あぁ、お食事中ですか」
 「すみませんね。もう戻りますので」
 「あとどれくらいでお戻りでしょうか」
 「そうねぇ……」
 「いや、結構です。また来ます」
 「いえすぐ戻りますから。どうぞお待ちになって」
 「また伺います。さようなら」
 私は帽子屋を出た。
 帽子は、諦めることにした。




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