さようなら
さようなら。
別れぎわにそう言うとたいていの人は、はっとした顔をする。あるいは冗談だとおもって愛想笑いをされる。ふだんの、何気ない別れぎわのことである。
子どものときはだれしも言わされたはずだ。
せんせい、さようなら。
みなさん、さようなら。
今でも幼稚園バスが路肩にとまれば、きっと園児の頓狂な声でさようならが聞こえてくる。
通信技術や移動手段が発達した末、人と人との距離は格段に近くなった。別れても会える。会わなくても会える。別れぎわの深刻さは、ない。
そんな時代のお別れには、カタカナのバイバイこそ、ふさわしい符号なのかもしれない。さようならのまとう、しんとしたせつなさは、まるでもう会えないかのような影をお互いの胸へ落とす。しかし、また会える保証はどこにあるのだろうか。
さようならを忘れさせてくれるもの。それがいまの私たちが軽々しく求める幸福になっていないだろうか。人は皆、さようならにむかって生きているはずである。人生の区切りに、さようならをしっかりと置いていく。さようならを言うことで、さようならにふさわしい時間を生きられる。さようならという言葉の喪失は、それにふさわしい人生の損失でもある。
さようなら。
うつくしくて、せつなくて、あたたかいことば。こころから無駄なものを掃きだしてくれることば。ほんとうにたいせつなものだけを思い出させてくれることば。人は、さようならを言うときが、いちばん美しいとおもう。
好きな日本語をひとつだけ、と言われたら、私は、さようなら。
さようならの似合う時間を生きたい。
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