魔女の贈りもの
駅前の繁華街をすこし外れたしずかな場所にその施設は建っていました。この施設は創作活動をする作家や、手に職をつけた個人商店のためのテナントです。元は大手商社の社宅だったという古アパートをそのまま利用していて、ひび割れと蔦で覆われた趣のある雑居ビルでした。その日、私はこの施設の食堂を目当てに足をはこんだのでした。
食堂は古いリサイクル品の家具を寄せあつめたような空間で、壁の棚には手作りの小物が脈絡なく展示してありました。窓際のソファに年配の女性がくつろいでいました。他に客はいませんでした。
定食をたいらげて、お冷をすすりながら店内を見わたしていると、ソファの女性が振りむいて「ここは、はじめてですか」と口をひらきました。女性は派手な柄のワンピースをまとって、伸び放題のわさわさした髪の毛のおおかたは白髪でした。品のいい魔女といった風貌です。
「私はここのオーナーです」と、その女性は言いました。
私は、定食がおいしかったことを挨拶しました。そして名刺交換を求めました。魔女のようなオーナーさんは快く応じてくれました。
私が魔女の鎮座するソファの前に膝をつくと、彼女は素っ気なく名刺をさしだしました。私は急に、興味本位の自分の行為に負い目をかんじました。名刺をおしいただきながら、おもわず「すいません、なんでもない人間ですけど」と首でお辞儀をしました。すると魔女は微笑んで言いかえしました。
「なんでもないひとなんていません。」
生来、自尊心の低い私にとってこのセリフは、おもいのほか胸を打ちました。同時にその言葉は、この施設のキャッチコピーにも聞こえました。
この施設の入居者たちは、みずからの個性を尊び、みがきあげ、それを武器にして世の中にじぶんの居場所を開拓しています。おもて向きに華々しく見えるクリエイターやアーティストたちの、うら面の泥くさい努力を、オーナーさんは長年のあいだ見守ってきたことでしょう。
「なんでもない人間なんていない」とは、彼女の生き方を偽りなくあらわした言葉だと私はおもいました。
あのときの魔女の言葉はいまも胸の片隅にしまってあります。ときおり取りだしてながめて、自堕落な自分をなぐさめています。そうして、もしもいつか私の目のまえに、気弱な “なんでもない人間” があらわれたら、この魔女の贈りものをおすそ分けしてあげようとおもっています。
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