おりんさんが別れなかった理由〜『志ん生最後の弟子 ヨイショ 志ん駒一代』古今亭志ん駒
古今亭志ん生とおりんさん
私は50代独身。
もうさすがにあんまりありませんが、昔、お見合いとか結婚の話になった時、いつも古今亭志ん生とその妻おりんさんの事を思い出してました。
古今亭志ん生は抜群に面白い。死語40年以上たった今でも現役も含めた全落語家の中でトップクラスに録音物が売れているそうで、スゴい。
朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1955年新年号, パブリック・ドメイン, リンクによる
しかし、志ん生が花開いたのは50歳前後になってからで、それまでに16回改名し、問題を起こしては幾度も師匠を代え、一時は講釈師に転向していた。
あちこちに借金をこさえながら、飲む・打つ・買うの三道楽をやめず、どん底の生活を続けていた。
おりんさんはそんな男の所に、正式な見合いも結婚式もナシに嫁入りした。
一緒に暮らし始めたあくる日から「仲間内の付き合いだ」ってんでダンナは吉原に女郎を買いに行った。
1ヶ月もすると、おりんさんが実家から持ってきたものは、部屋から一つもなくなった。
それから毎日毎日、おおよそ15年位、おなかが空いた日が続いた。しょーがないのでひとさまの着物をあずかって直す内職を始めると、ダンナがそのひとさまの着物を質屋にぶちこんだ。
はるか後年、志ん生最後の弟子となった古今亭志ん駒がおりんさんに尋ねた。
「どうして師匠(志ん生)と別れなかったんですか?」
おりんさんは言った
おりんさんは言った。
「いつかモノになると思ってた」
人前ではあまり素振りを見せなかったが、いつも稽古だけは必ずしてた。落語の本だけは捨てずに読んでた。
いつか、必ずモノになると思っていた、だから苦労も耐えられた、と。
そんなおりんさんを、芸の虫だが偏狭で人間関係の悶着が多かった名人・三遊亭円生も
「志ん生のような、デタラメな人間だって、おかみさんの力でなんとか芸を磨くことができた」
と激賞した。
いい女とは?
これが「いい女」ってもんだなぁ、と。
つまり、家があるとか、安定してるとか、そーゆー子供にでもわかるような事ではない、見えにくいものが見えて、それに賭けられるんだなぁ、と。
そーゆー嫁、いいですね。
そして、志ん生とおりんさんの息子が馬生と志ん朝です。
つまり、おりんさんは、3人の名人を育てたわけです。
おりんさんが育てた3人の名人
志ん朝は、残念ながら2001年に63歳で早くに亡くなっちゃいましたが、名人と言われてますね。
志ん生は遅くに生まれた志ん朝を大変かわいがったそうで、晩年は「志ん生」を継がせたかったそうです。
ただ、わたし、志ん生の落語はよくわかんないんです。良いんだか、悪いんだか。どーも、声とリズムにノレなくて。
もし、芸術としての「志ん生」を継ぐんだったら、それは馬生だったんじゃないすかね。
54歳という若さで亡くなっちゃったそうで、それはそれは残念なんですが、今聞いても声が抜群ですね。甘くて、まろやかで、おかしみがあって。そこが親父の志ん生と似ています。
馬生は、志ん生と違ってとても真面目な性格だったそうで、落語にもそういう感じが出てますが、もうちょっと、もしかしての話ですが、歳をとってクダけてきたら、さらに素晴らしい落語を聞けたんじゃないか、と。オヤジの志ん生も50歳超えてブレークしたわけですから。そう思うと、ほんとに残念です。
文筆家と三味線豊太郎と池波志乃
その馬生の娘が女優の池波志乃です。すごくおりんさんの面影を宿しているように感じます。
つまり、おりんさんは、一人の名人をダンナに持ち、二人の名人を生んで育て、一人の女優を誕生させたわけです。
それだけじゃないんですね。
長女は美津子。確かニッポン放送に入って晩年の志ん生関係の仕事をこなして、いつの頃からか文筆家として我々を楽しませてくれました。
次女は喜美子。三味線豊太郎として活躍されたそうです。
というわけで、おりんさん、生活能力の全然ない妙なダンナや極貧に苦しみながら、いや、これもー、ほんとに極貧です。高度成長期以後に生まれ育った我々が読んでも、まるで実感できないほどの極貧です。
そんな極貧の中で、一日中働きながらも子供を全部ひとかどの人物に育ててるわけです。
賢妻(T﹏T)