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正常にバグる。
人には「火の手」と「水(緑)の手」の2タイプがあるそうだ。 水の手を持つ人は植物を意識せずとも上手に育てられる人。 火の手を持つ人はちゃんと世話をしているにもかかわらず枯らしてしまう人。エビデンスが気になり調べてみたがヒットせず。占星術エレメントの火、風、地、水あたりが出所ではないかと推測するが、詳しい方がいらっしゃれば教えてください。
私は間違いなく後者である火の手の持ち主。ブログなどでもたびたび書いているが、これまでもことごとく枯らしている。植物を上手に育てる友人から「構い過ぎ。テキトーじゃないと」と言われるが、その加減がわからない。感覚がつかめない=センスがないということか……。分かっている。分かっているけれど、淡い期待を胸に「なんか植えよう」と衝動に駆られるのだ。年に1〜2回程度だけど。今回はなおさらStayHomeで時間もあったし、押し入れに放置していた種(食べられる草類)をひっぱりだし、空のプランターにこれまた放置していた腐葉土を詰め、テキトーに蒔いてみた(書いて分かったが、これじゃ上手く育たない気がする)。しかし、季節は春。穏やかな気候が味方し、芽吹き、しげり、それなりにボタニカル感が出てきたではないか! 瀕死の状態だったモンステラ(長い付き合い。ギリギリのところで生き返る。唯一、気が合う植物)もV字回復を遂げ、いい感じに育っている。
Discover Japanに寄稿されていたワクサカソウヘイさんのエッセイを読みながら、ウンウンと頷いた。ワクサカ氏のベランダもこのコロナ期を通してジャングル化したらしい。
猫でも飼いたいな。そんなことを思う。〜しかし、私のマンションはペット禁止である。外出も駄目、猫も駄目。わかったよ、この狭いリビングで、絶望だけしていればいいんだな。すべてを諦め、鬱屈とした気分でフローリングに寝転ぶ。ガラス窓から春のわざとらしい光が差し込んでいる。なんとはなしに、ベランダに目をやる。室外機だけが置かれた殺風景なベランダである。
そこから、ワクサカ氏のベランダの「家庭植物園」計画が進んでいく。コロナの登場はいわば予測できない社会のバグである。このベランダの景色は、日常の中に突然にして現れたバグであり、さながら裏ステージ。そしていつしか、花が咲くのでは、野鳥が来るのではとうっすらと希望を見いだすなんて……。世界はこのようにして、変容することを常とし、「異常」が絶え間なく続くこと、それこそが「正常」なのだ、と。
希望を抱きながらも、絶望を。絶望を抱きながらも、希望を。
目の前の「有事」を「平時」へとアップデートし、新たな希望と絶望を携えながら、未知なる攻略法を模索しなければならない。マニュアルなんてない。涙目になりながら、絶望しながら、この先を生き抜くための希望を召喚し続けている。……いい具合に大袈裟で、嫌いじゃないぞこの感じ。状況対応力ではないが、いかなるフェーズにおいても柔軟にフィットしていく能力こそが、この先の未来を変えるヒントになるだろう。
そんな私のことなど気にも留めず、ベランダの植物たちは今日も風に揺れている。正常にバグりながら、静かに夏を迎え入れようとしている。
長年にわたる私の植物との戦いも、絶望と希望を繰り返しながらのアップデートだったのだ。その割には何も学んでいない……いや、失敗を恐れずに種をまく、たくましく(図々しく)生き抜く強さが身についているじゃないか。そんなくだらないことを思いながらベランダでパシャパシャ写真を撮っていたら、しっかり蚊に刺された。ああ、夏が来たよ。
パクチーの種を植えたはずの手前奥部分……芽が出ないのはなぜ? これは、あきらかなバグ。