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【短編】しあわせ予備校-5

「では、次の講義に移りましょう」

 淡々と告げる田中さんとは対照的に、ミスター四宮は先ほどの悟りを開いたような表情はどこへやら。肩で息をし、目を血走らせながら黒板を睨みつけている。

 その目線の先に

“恋・愛“

 と書いた。

 記憶が無いせいで、いちいちこれって俺のことか? とドキリとしてしまうのは心臓に悪い。

「さて、恋と愛の違いってなんでしょう? 広里さん」

 あぁ、俺に来たか。飲み会の話題みたいなテーマだと思いつつ、真剣に考えるとなかなか難しい。

「えーと、恋は愛の入り口というか、そこから始まっていって段々と愛に変わっていく、的な」

「はい、ありがとうございます」

 相変わらずこの問答に関しては、ただ言わせているだけらしい。

「ミスター四宮、どうです?」

 落ち着きを取り戻したミスター四宮は、ギョッとした表情を見せた。そりゃそうだ。家族に逃げられてしまった事実を突きつけられた後に、愛について語らせるなんて、なかなかの罰ゲームだと思う。

「いや……私は、それが分からなかったからここにいるようだし」

「いいから、何か答えて」

「うーむ、愛とは……積み上げるのは長い時間がかかり、壊れるのは一瞬だと思う」

「はい、ありがとうございます」

 ミスター四宮の境遇なら、そう言うしか無いだろうという回答にも関心を示さず

「では、金森さんは?」

 と話を振る。

「私は、恋と愛は同じものだと思います。どちらもお互いを好きでいるってことでしょう? なら、どちらにも差はありません」

 恋の話題となると、金森さんは意外とハキハキ喋った。その堂々とした態度が逆に「あぁ、この講義は金森さん用か」と確信させるのは、なかなか皮肉が効いている。

「ふむ」

 とだけ呟くと、田中さんは

“恋=人を好きになって、会いたい、いつまでもそばにいたいと思う、満たされない気持ち”

“愛=相手を大切に思い、尽くそうと思う気持ち”

 と書いた。

「このように……三省堂国語辞典は定義しています。恋については、概ね正しい。特に満たされない気持ちという辺りが、実に。

ただ、愛に関しては……」

 田中さんは黙って中指を立てた。信じられない光景だ。その見た目とは言え、あなた天使じゃないのか。

 っていうか、何か愛に嫌な思い出でもあるんですか?

「これ、どう思いますか。広里さん」

 え? ここでまた俺ですか。

「いや、愛ってそういうことなんじゃないかなと思いますけど……」

「ガッ……デム」

 またもや天使(角刈りの)の口から、耳を疑う言葉が飛び出した。

「愛とは確かに素晴らしいものです。時にはこのように感じることだってあるとは思います。ただ、四六時中こういう感情でいられるわけじゃ無いでしょう?」

「いや……まだ結婚もしてないし、愛が何かって分かる歳でも無いです」

「あなたご家族は?」

「両親と……兄が一人」

「常に、こんな感情を抱いていますか?」

「それは……今は別居ですし、常々意識するタイミングってのはあまり無いかなぁ」

「では、ご家族を愛していませんか?」

「そんなことは、無いです」

「ですよね? まぁ、愛ってある意味そんなもんです。人生の中で波がある。普段は日常の中に紛れ込んでいて、その存在を認識することは無いし、何かフとしたきっかけに、それを感じるものなんじゃないでしょうか?」

 うん、まぁ、そうかもしれない。

「恋と愛は、同じものと言いつつ、実態は別のものと言っていい。もちろん全ての愛の入り口が恋であるということは否定しません。

ただ、この二つを同質のものと捉えるのは、リスクが大きい」

「リスクって、どう言うことですか?」

 たまらず口を開いたのは金森さんだった。

「恋には耐用年数があります。人によって若干の差がありますが、大体三年で付き合いたての感情が嘘のように冷めてくるタイミングがあるのです」

 ……それは、聞いたことあるし、わかる気もする。

「その感情の変化を受け入れて、破局せずに関係性を続けていけるかどうかが、愛が生まれるかどうかのボーダーラインと言えます。最初のドキドキなんて、どこかへ消え去った状態で、相手のことを尊重できるのか。いいバランスでお互いの時間を確保して、高めあっていけるのかなどなど。

まぁ、愛というのは諦めから始まると言っても過言じゃないかもしれません。ドキドキはない、けど、相手と一緒にいたいと思うのかどうか」

 真顔の恋バナが展開される教室には、なんとも言えない空気が満ちている。

「厄介なのは……、自分と相手の恋の耐用年数が違う場合です。相手の感情は愛へと移行し始めているが、こちらは恋の気持ちが消えていない、常に好きだと囁いてほしいし、自分にだけ時間を使ってほしい。この満たされず、常に求める感情はまさしく恋なのですが、当人はこれを愛だと思っている。さて、これはやっかいです。大抵の場合、恋の感情が先に尽きた方が嫌気がさし、結果別れることになります」

 ここまで聴いて、流石に金森さんも察したのだろう。目を見開いたまま大粒の涙をこぼし始めた。

「私……フラれたんですか?」

「ええ、そのショックで手首を切って、ここへ来たのです」

 金森さんは、自分が手首を切ったらしいということよりも、恋人にフラれた事実を再度突きつけられたことにショックを受けていた。

「結局、恋の感情は永遠ではないですし、どこかで落ち着いて愛に移行していかないと関係は続かないのですよ。まずは恋と愛が、別のものだということを知ることが第一歩です」

 ……キメ顔のところ悪いが、田中さん、モテなさそうだけどなぁ。そんな俺の冷めた心のボヤキをよそに、場は落ち着かない。

 泣き崩れる金森さんに、気まずそうな顔の俺とミスター四宮。

「仕方ありませんね、一時的に失恋したという記憶を消します」

 田中さんは、金森さんに近寄ると人差し指でおでこに触れた。その瞬間、過呼吸でも起こしそうだった金森さんはスッと泣き止んだ。

(え……やっぱ田中さんって、天使なんだ)

 見た目とのギャップと目の前で起こる不思議な出来事に頭がこんがらがりそうだ。

「さて、金森さん。肝心なのは、恋と愛の感情を分けること。ここまではいいですね?」

「はい……でも、私、諦めが愛の入り口なら、そんなの必要ありません」

「ふむ?」

「一生、恋だけをして生きていきます! 私は、好きな人にはズッとときめいていたいんですもの」

 言うや否や席を立ち、軽々と扉を開けて出ていってしまった。

「あの……扉開いちゃいましたけど」

「そのようですね」

 正直、講義の内容が伝わっているとは思えない展開だが、田中さんは落ち着き払っている。

「いいんですか?」

「無論です。扉が開いたならそこで修了ですから。

恋は耐用年数があると言いましたが、例外だってあるわけです。世の中には、ラブラブチュッチュし続けている老夫婦だってあるわけですから。

プライオリティを見極めることが大切です。ずっと恋をしたいということであれば、恋の感情が終わってしまった相手にこだわる必要はないですし、今の恋人は望む相手じゃなかったと割り切ることも可能でしょう。

まぁ、望む相手に巡り会えるかどうかは運次第ですが。少なくとも、そこを目指す気力を持てるかどうかは、自分の大切なものが何かわかっている必要がありますから」

「……ラブラブチュッチュ。でも、田中さん。あの愛についての熱弁は」

「天使にだって、感情もあれば、忘れたい思い出の一つや二つあるものです。まぁ、仕事に感情を持ち込むのはいけませんね」

 ガタンッ

 俺たちの会話は、不意にミスター四宮が椅子から立ち上がった音で中断された。

「愛の講義を聞いて、一つ分かった事がある。愛なんて、いつ消えるかわからないものだし、失ってつらいのは確かだが、そもそも持っていても実感する機会はそうそうない」

 バンッ

 両手を机に突き

「なら、私は金の方が大切だ!」

 と宣言した。

「愛を得るために、時間や金を犠牲にしていくことを想像したら、私はその方が恐ろしかった。家族が出て行こうが、なんだろうがそれはそれだ。

私は、さらに稼ぐために現世に戻る! もう迷わん」

 言うや否や、扉へと歩を進め、今度こそ……扉は開いた。

 二人きりになってしまった教室で、

「あれも……」

「扉が開いたと言うことはこれで修了です」

 呆気に取られる俺に、淡々と田中さんは言う。

「しあわせの尺度なんて、人それぞれですから。ミスター四宮の場合、自分のしあわせが何なのか、実は整理が付いていなかった。

偽りの決意でここを出ようとしていたと言うことですね。まぁ、しあわせは自分の心が決めるものですから。

周りからどう見えようと、自分で決めるしかありませんものね」

 スタスタと、黒板の方へと歩いていき、田中さんは黒板消しを手に取った。


〜続〜

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