原動力はマゾヒズム【エミリ•ディキンスン#252】

人はどんな力をもって生きていくのか?幸せを求めてだろうか。富や名声だろうか。いかに自分の力に転換していくのだろうか?

詩人エミリ•ディキンスンは、孤独のうちに詩を書いて生きながらえた。生前認められることはなく、書き溜めたものを遺して去った。だが孤独だから過酷というのは単純な、世俗的すぎる見方である。たとえば結婚が幸せかと問われてイエスと答える人の割合を数えるまでもなく、幸せは不定形である。原動力もまた人によって異なる。

ではエミリのパワーの源泉は何だったか?「あえて苦の道を歩む」ことだったというのが、この詩である。

I can wade Grief —
Whole Pools of it —
I'm used to that —
But the least push of Joy
Breaks up my feet —
And I tip — drunken —
Let no Pebble — smile —
'Twas the New Liquor —
That was all!
Power is only Pain —
Stranded, thro' Discipline,
Till Weights — will hang —
Give Balm — to Giants —
And they'll wilt, like Men —
Give Himmaleh —
They'll Carry — Him!
(J252)

悲嘆という沼の底を
わたしは歩んできた
それには慣れっこだ
悲嘆の歩みを阻むものは
針の先程の歓喜というやつ
酔ったわたしはチップをわたす
小石ではないと微笑んで
いやそれは泥でできた新酒
それがすべてなの!

力とはただの苦痛
苦痛を増やす修行をへて
苦痛の重さにひしがれる
偉大なマゾヒストに香葉を与えよ
年を経てしおれるだけだが
マゾヒストに極寒のヒマラヤを与えよ
喜んで背負っていくだろう

現代は(特に日本は)自分を甘やかす時代である。どんなことでも「自分を褒めてあげたい」「自分にご褒美を」という。物凄い努力であればわかるが、たかがエクササイズをひとつやって、自分にご褒美をいちいちあげていたらブヨブヨになるだけだ。

むしろ厳しい環境に自分を置き続けることでまっとうできる。たとえばプロのアスリートやアーティスト、歌手、詩人という仕事はそれだ。エミリは悲嘆という泥沼の底を歩き、ご褒美は泥の酒であり、苦痛をひたすら自分に課してやがて萎れていく。マゾヒストという語はわたしの創作だが、ヒマラヤとは最も厳しいことの象徴である。

世俗的なものと絶縁したエミリにとって、認められることも出版することも、富も名声も関係なかった。超絶である。だが彼女の希望が苦痛だけとは思えない。彼女の希望は後世の人の理解だった。現生では理解されなくても、詩が残せればいつか理解される。それが孤独を貫かせたのではないだろうか。

わたし自身の心境の変化を書いておこう。わたしも何十年も孤独であった。どこか人を受け入れない壁を築いてきた。それでうまくいかないことが多かった。

ところがトランスジェンダーを自覚した時、変化が訪れた。初めて純粋な気持ちでチームプレイができたのだ。最近ある仕事で、私が初動の役目を果たし、具体化と仕上げがうまい人にバトンタッチをした。さらに演出が上手い人が加わり、演技者も加わり、全体を指揮する人が最後を締めた。心のどこかに自己中心の「オレオレ」が潜んでいたわたしが、純粋に滅私の気持ちになっていた。コマであることが心地よかった。そんなことは生涯初めてだった。

自分らしさを出すと、何事も受け入れやすくなっていく。おそらくエミリも同じで、自分らしさー厳しい孤独ーを貫くことで、人の心に響くものが書けるようになった。それは実は孤独な作業ではなく、「わかりあえる読者」とのチームプレイでもあった。


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