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眠れる美女 2024/08/17(5-p.258)#95

川端康成『眠れる美女』を読みおえる。新潮文庫。

旧版と新版。旧版はプレミアムカヴァー。

ちょうど川端を読みはじめたところで新版が出て、いい機会でもあり、さっさと読むことにする。旧版でも以前読んだが、改めて買い直す。三島由紀夫の素晴らしい解説が元々あったところへ、新版では浅田次郎の解説(と云うよりは思い出話? 思っていたほど悪くなかったけど)も追加されている。因みにだが僕の持ってる旧版は、2019年の新潮文庫の100冊プレミアムカヴァー。

表題作「眠れる美女」のほかに「片腕」「散りぬるを」の全三篇を収録する。いずれも川端の異常性が炸裂している。

「眠れる美女」は、決して起きない全裸の若い女と添寝をする老人の話だ。一種の風俗店だが、通ってくる老人は(基本的に)不能で、ほとんど何もできない。見て、匂って、触れているのに、圧倒的な孤独感がある。ディスコミュニケーション。寝る女を観察し、過去を回想するばかりだ。川端の変態性が迸っているが、この体験は何かに似ている。ずっと考えながら読んだが、何のことはない、まさにいましている「読書」に似ているのだ。心地のいい孤独。それはお互いに、である。

読んでいるときはひとりで、読むほうは五感を駆使し「体験」する。読まれるほうは、それこそ裸を曝け出すような感覚があるのかもしれず、それでいて誰が読んでいるかを知ることは(通常は)ない。江口老人は作者のようでいて、実は眠れる美女たちこそが作者自身、であるのかもしれない。

江口は枕に片肘突いて娘の手をながめながら、「まるで生きているようだ。」とつぶやいた。生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。なにもわからなく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈められているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているのではないが、もう男でなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない。江口の老眼には目近の娘の手がなおやわらいで美しかった。触れるとなめらかだが、そのこまかいきめは見えない。

p.18-19「眠れる美女」

と、いま引用のために書き写していて気づいたが、解説で浅田次郎の云っていたとおり、ひらがなが多い文章である。感覚で書いているのか計算しているのか、或いはその両方なのか、いずれにせよ、これしかないと云う文体が心地いいし癖になる。


「片腕」は若い女性の右腕を持ちかえる男の話で、これまたフェティッシュ全開である。腕と会話し、果ては自分の腕とつけかえたりする。小川洋子と佐伯一麦の対談本で、川端はグロテスクを通り越してメルヘンまでいっちゃってる、と云われていたが、まさにこの作品がそうで、あらすじをまとめるとグロテスクなのに、読んでいるとメルヘンで、笑っちゃうくらいである。

「散りぬるを」は一転してミステリ、と云うかアンチ・ミステリのような小説で、殺人者とその被害者の心理描写がリアルである。さらにそれを描く作家、と云う二重構造になっているのが僕好みでもあり、何でも書けるんだな、と唸らされる。

「おまえが日記を書いていても、嘘ばかりついていたろう。そして今ごろは、嘘を書いたということを忘れていたろう。」

p.187「散りぬるを」

この日記も嘘ばかり書いているし、嘘を書いたと云うことは、書いたそばから忘れているのである。図星を刺されたようで、どきっとする。


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