雪国 2024/08/09(4-p.223)#87
川端康成『雪国』を読みおえる。(いつかの)新潮文庫の100冊。
読みやすい文体、美しい文章。文がキレイだと、展開しない小説も退屈しない。それでも、筋は追わなくていい、などと云いながら、後半は駒子の心情の変化が気になって、グイグイ読む。
小川洋子と佐伯一麦の対談本『川端康成の話をしようじゃないか』に、川端は自分なりの源氏物語を書いたのではないか、とあったことを思い出す。
『源氏物語』は光君の物語であるが、彼を描いていると云うよりは、光君を軸として、関わってくる女性たちをこそ描いているようなところがある。文字どおり、女性を照らす「光」なのだ。
この『雪国』もそれとおなじではないか。但し島村は光というより、無だ。虚無。本人は徒労と云う語を好んでつかうが、透明な存在であり、瞑想で云うところのマントラのように機能する。
島村の目を通して、駒子と葉子、或いは行男も含めた関係性を描き出していく。北国の山村の風景、葉子の美しい声、駒子の肌触り。それらは島村が見て、聴いて、触れることで、小説の文章となって立ち顕れる。島村は鏡であり、書き手であり、それ以上に読み手でもあるのだ。
近づけば近づくほど、描写はリアルになり、またグロテスクにもなりうる。今村夏子『むらさきのスカートの女』と云う小説があるが、そこでは対象者の異常性を描こうとすればするほど、観察者の異常性が際立っていく、と云う奇妙なねじれを読むことになる。見る、という行為は本質的に暴力性を内在しているのだ。
それでも、近づがなければ駒子たちの内面には迫れない。島村に僕らの抱く(かもしれない)嫌悪感は、見る対象にも、読み手である僕らにも、彼が接近しすぎているから、かもしれない。
安易な共感を拒否する。駒子の生き様を描くには、この書き方しかなかったのではないか。下手に彼女へ寄り添えば、それは搾取にもなりかねない(余計なことだが、さいきんはそういう安易な共感=搾取をする小説が多すぎるとかんじている)。作者はどうしたって寒村の芸者にはなりえない。それでも、彼等の内には作者の内面がどうしたって映りこんでしまうから、小説とは奇妙なものだ。映りこむ。あ、ここにも鏡が。
小説の文体は美しい工芸品のように研ぎ澄まされ、たった一行で世界を形成する。僕らはトンネルの向こうへ連れ去られ、たちまち雪国へ放り込まれる。その文体の破壊力よ。また何度でも読める。ずっと読んでいられる。
以下に引っ掛かった文章を引用しておく。
自分の文章を読み返すのは恥ずかしい(から読めない)、と云うことを小川洋子も佐伯一麦も云っていたが、川端は何度も読み返しては何度も書き直していたらしい。好きな芸術品を愛でるように。僕も古い日記は恥ずかしくて読めない。そのくせ毎日書いているのだけど。徒労だね、と島村には云われてしまいそうである。
本の感想なんて書けないのだが、人間関係を書く、というのも意外と難しいものである。駒子のようにずっとつづけてみれば、何かしら鍛えられ養われるのではないか。読解力とか、批評性とかいったものが。
因みにだが僕のここに書いているものは、感想というほどでもない、と自分ではおもっていて、じゃあ何なんだ、と云われたら僕自身、何かわからず困ってしまうのだけれど、僕の心持ちとしては(読書の)日記を書いている、というのがいちばんしっくりくる。
調和などしていない。はっとさせられる。
いやあ、これわかるわあ。毛布やタオルケットがぐちゃぐちゃのままだと厭で直すし、部屋も子どもが散らかすんだけど、気になってすぐに片づけちゃう。ほっとけないんです。うん、僕もきれいに暮らしたいと思ってる。境遇の許す範囲で。
解説は竹西寛子と伊藤整。そこに新版で堀江敏幸が追加された。豪華。