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景観と交流しながら、歩く

やわらかな薄日が差した春の日は、歩くには適した陽気だ。強い日差しを浴びることもなければ、肌寒さもない。寒暖を気にすることなく、歩行と思考に専念できる。ついこの前まで桜が美しく咲いていたが、5月に入った今ではその名残も消滅し、待っていたかのように初夏の花々が咲き始めた。道端には、今シーズンの活動を終えようとしているタンポポが、最後の綿毛を飛ばしていた。

そんな道を時速5キロくらいで歩きながら、こう考えた。(夏目漱石「草枕」風に)

この道は、これまで大勢の人々が歩いているはずだ。しかし、道端に咲くタンポポを見た人は、果たして何人いるだろう。当たり前だが、見ようとしなければ、モノは見えてこない。誰にも見られずに咲いて散る花も多いように、自然界は四季に合わせて、黙々と変化を繰り返している。

そんなことを思いながら住宅地に歩を進めるうちに、建築途上の家が目に入った。この家が建つ前、ここには何があったのか?そして、新築する家は、いつまでここに建ち続けるだろう?生物が生まれて死ぬことを繰り返しながら進化してきたように、景観も建築と解体を繰り返し、変化し続けている。

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この家が建つ前には、ここに何があったのか?

ここまで思考を進めたときに、とあるエッセイが脳裏に思い浮かんだ。PLANETSが発行する雑誌「モノノメ#2」の冒頭に掲載された紀行文「観光しない京都」である。

エッセイの作者は、「モノノメ#2」の編集長である宇野常寛氏だ。観光という視点を外し、そこに暮らすように旅をすれば、風景の中に溶け込んでいる歴史に気付き、歴史に見られている感覚を味わえる。そうした視点を持てれば日常風景の解像度が高まり、日々の暮らしをちょっぴり楽しめる。こうした旅の新しい楽しみ方を、宇野氏は提唱している。私も、歩くという目的に徹したおかげで、観光では決して目に入らない道端の散りゆくタンポポの綿毛が視界に入り、建築中の家を認識できた。

考えてみれば、京都ほどではないが私が暮らす地域にも、さまざまな歴史の痕跡が(見ようとすれば)見られる。道端にひっそり佇む道祖神、はるか昔に組まれたであろう水田の石垣、赤さびが浮いて茶色に変化した火の見やぐら、自然に戻りつつある廃屋、等である。これらは観光の対象にするには弱く、普通ならまず見逃す存在だ。

しかし、そこに歴史視点と少しばかりの想像力を加えると、とたんに物語性を帯び始める。道祖神のもとに住民が集まり祀っているシーンや、石垣を苦労して積み重ねたシーンとかを想像すると、その風景やモノが景観の一部として今も存在していることが不思議に思えてくる。タイムリープではないが、過去と現在が交錯する感覚を味わえるのだ。普段の日常生活で、こうした感覚を味わうのは難しいが、観光しない視点で近所の風景を眺めてみると、想像力が起動し、風景やモノが歴史を主張してくる。それは刺激的で、心地よい体験だ。

さらに思う。
私は旅先で、何気ない風景やモノに惹かれて足を止めることがよくある。それは歴史的なモノに限らず、道端にひっそりと咲いている花だったり、一軒の普通の民家だったり、川面に光る太陽だったりと、さまざまだ。そして、自分がその風景やモノに惹かれた理由は、「何となく」だと思っていた。

しかし、その風景やモノから「見られていた」と思えば、様相が変わってくる。見られている風景やモノと向き合って視線を合わせることにより、それらが自分に言葉を発していたように思えてくる。その言葉を解読するには、自分自身との対話が求められる。なぜ自分はこの風景に惹かれたのか?なぜ自分はこのモノを気に入ったのか?その理由を想像する体験は自分ごととなり、旅の記憶とともに心に刻まれる。

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小川にかかるこの橋がなぜか気になり、つい写真を撮った。

風景やモノと少しばかり「交流」をすることで、記念写真には決して写らない自分固有の体験が残る。それこそが、観光しない旅の醍醐味なのだと、歩きながら考えた。


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