”人間の根源のエネルギー”と”意識の抵抗”(前回の記事、続編)
昨日記事にしていた、”生きやすさの鍵"”唯一増幅するエネルギーであり、唯一全てのエネルギーを作っている元でもある根源の愛と感謝のエネルギー”の話の続きである。
前回の記事
実は昨日ふと思いついて綴ったはずが、偶然にも身近な人と、全く別の話題から同じテーマの話になり、連日で深い話をする経緯となり、記事にもしてみようと、続編ができた次第である。
前提
まず、前提として、私は”生きやすくなるための一番良い意識と無意識の連携”法として、”人生の日常、こまごましたことは全て無意識領域の自動運転に任せてしまうと良い”という言い方をすることが多い(無論、これも概念の外側から見るとただ一面からの言い方にしか過ぎないので、これを伝える相手によっては全く別の言い方をするかもしれないのだが)。
この言い方をする理由として、私は他にも「意識領域は会社の社長であり、無意識領域や内臓たちは現場を切り回す人たち」という例えに当て嵌めて話すことが多い(意識と無意識の連携は、会社経営に非常によく似ており、この例えを使うと大抵例外なく全て会社経営と同じように説明ができるのだ)からなのだが、この考え方については今は割愛をする。
また、私は「意識の抵抗」という言葉をよく使う。心理学的な用語で細かくわけてしまうと伝わらないからと思いいつの間にか使い始めたのだが、これは少々意味合いが広く(悪く言えば曖昧)、心理学用語としては抵抗のことであったり、自分の本当の心が感じていることを何らかの建前的理由によって感じることを否認して覆い隠すことにより現れる「ラケット感情」のことであったり、内臓と無意識・意識の拮抗のことであったりするのだが、まあとにかく魂・無意識領域・内臓(身体)・意識領域それぞれの方向性の不一致による誤作動のことを指す。
根源の愛と感謝を感じる(通路を開く)ことに意識の抵抗を示す人は多い
これは、いわゆるトラウマや愛着障害を持っている人、持っていない人に関わらず、特に現代日本人(西洋人にもかもしれない)には多い。
ただ、論じたいのはここでもないのでここも少々割愛をしたい。
今朝、私がその身近な者と会話をしていた。何せ冒頭に記したように昨日の記事と全く同じテーマで彼女(その「身近な人」は女性なのだが)と話していた、その関連で今朝も似たような話になったのだが。
彼女は既に何度も私のセラピーを受けてくれたこともあり、私の特有の言い方”無意識領域に委ね任せて、自分は社長として監督(俯瞰)をして楽に生きる、今ここの瞬間瞬間に起こることに対してとにかく嬉しく楽しく無心になる”を、随分と実践してきている。そして実際それでどんどん生きやすく、人生も効率的に好転してくるので、私の無意識領域としての感覚を、はっきりと信じてくれてもいる。
その彼女と、昨日の記事のような根源の(愛と感謝の)エネルギーというものはどういうもので、それが開通するというのはつまり無意識領域(自分の魂そのもの)と出会うということ、そしてそれに出会ったら何が起こるのか、何がどう変容するのか…また、本当に生きやすい自分らしい人生を手に入れる者やビジネスで(あくどい手段でなく)成功している者は、皆そこを開通させている、つまり本当に生きやすい人生を手に入れるかどうかは、根源の愛と感謝に気付けるかどうかである、というような話をしていた。
(この話、もともとはその女性が、辛酸に苛まれ尽くして死ぬ気でジャングルに渡ってそこの環境で奇跡を体験し私の言い方をすれば宇宙と繋がるというような結果を得て物事の見方がガラリと変わり人生が180度変わったという男性の動画を見たという話をしたことがきっかけで始まった。そして私が1年前非常に内面的には酷似した体験をしてそれから解放されたということも彼女は知っている)
彼女は最近、非常に”無意識領域に任せる”ことの心地良さを体感するようになってきていたので、とても心地よさそうに聞いていたし会話をしていたのだが、突然、「何かいきなり疲れを」感じ出した。
突然かったるくなって、言葉もうまく入っていかなくなった。
実は、彼女に根源のエネルギーの話をしたのはこれが初めてではない。
しかし、今回のようになかなか深入りして話したのは初めてだった。というのも、それまでは、根源の愛と感謝のエネルギーの話題に触れるどころか、私自身から無償の愛や感謝の波動を感じ自分自身の内面深くまで届いて自分がつい受け取りそうになると、途端に物凄い爆発的な意識の抵抗を起こしていたからだ。(本人、自分では)何故だかわからないが突然自分でコントロールできないイライラを感じたり、私の性格を「ストイックだ、わざとらしい聖人君子、偽善者みたいだ」と言い、私の一挙手一投足を「キレイゴトだ」と喚いていた。
そしてその怒りを自分でコントロールできずに苦しくなり疲れ、自分にも周りにも全てに嫌悪を感じるというラケットに陥っていた。
だから、ここまで深い話をした上で、「自分でも何かよくわからないんだけど突然疲れを感じている」と私を信じたまま報告をしてきてくれることができるようになった時点で、物凄い変化なのだ。
その上、その後それは「意識下が抵抗を起こして、”疲れ”というパターン化した症状の感覚として意識上に感じさせている、それで話を続けられないようにしている(だからそれだけ、無意識が本当は開いてきていて、頭でも無意識でも根源のエネルギーに近づいている)」というような説明まで軽くするまで至った(ちなみに彼女は心理学専門ではないため、ラケット感情などの用語では説明をしない)。
そしてその後、何故そういう意識の抵抗が起こるのか、その意識の抵抗とはつまりどうして感じたのか、その正体は何だったのか、という話をゆっくりと加えたので、それを記事にも転用してみたい。
この時、彼女に起こった「意識の抵抗」とは何だったのか
もちろん、「意識の抵抗」というものは上述した通り、メカニズムとしてもいろいろであるし、シチュエーションによって常に違うわけだが、今回はその「今朝彼女に起こった抵抗」を例にとってみたい。
(これを記事にすることは、本人に許可をいただいている)
まず、昨日から何度も同じことを述べているが、根源の愛と感謝のエネルギー、というのは、つまりは無意識領域・宇宙と全く同じものだ。
根源的な愛と感謝のエネルギーという言葉(これも私特有で使っている表現法かもしれない)を敢えて使えば、この愛と感謝を真に感じるということはつまり、無意識領域と宇宙を知る(体感する)こと。
愛と感謝のエネルギーが根底から湧き上がってくるままに感じ身を委ねるというのは、つまりそれこそが”無意識領域の自動運転に完全に任せる”ということであり、”宇宙にたゆたう”ということでもあり、同時にその逆もいえる。
つまりは無意識領域に完全に委ねて魂でも物質社会でも最善の自己実現を果たすということは、言葉を入れ替えれば愛と感謝のエネルギーに完全に委ねるということなのだ。
(この言葉の使い方は大きい。無意識領域の自動運転といういわば「本人のスキル・手段」のように捉えようのある言い方をすればできるし無意識の意向やメッセージを受け取ることができるが、「愛と感謝のエネルギーに浸り委ねる」という言い方をすると途端に抵抗が起こる場合が、殊に愛着障害のある場合はほとんどである。だが、実は全く同じことなのだ。)
それではどうして彼女には、「愛と感謝のエネルギーをあなたは滝のように受けている、それを自覚しさえすれば良い」という話を聞いた時に「意識の抵抗」が起こったのか。
特に現代の日本や西洋の人の意識領域というのは、愛や感謝という言葉の意味を、ついつい勘違いしている。いわば社会的表面的な愛や感謝を、根源の愛と感謝だと混同している。
彼女の最初に話していたその動画の男性も、日本で辛酸をなめ尽くして自殺未遂をはかり、それで命は助かり病院で目を開けたものの「なぜまだここにいるんだ」と絶望し、死んだ気になってもうこれしかないと、その未開の土地に行くことになった。物見遊山でなく過酷な大自然の国に行くことになって、そこで初めてそれ(根源的に湧き上がってくる愛と感謝)を”身体で”知ったわけである。
しかして、まずひとつには、意識領域(社会的に生きている仮面・自我の部分、自分が自分であると自覚にあがってきている部分)は普段、”消耗するエネルギーである言葉の枠によって作られている条件付きの愛と感謝” しか感じていないから、本当の愛と感謝というものが、実はとてつもなく心地良く開放的で増幅して元気になっていくものだということを、知らないのである。
そしてふたつめには、意識領域というのは今まで、自分が広大な無意識領域や宇宙に包まれて、とてつもなく宇宙に愛され完全に守られている、しかも自分自身がその宇宙自体の一部という偉大な存在であるということを知らず、いわゆる「地球上の長い年月の教育」によって、『ただ自分だけが生きてきた』と思い込んでしまっているのだ。
言葉というのはただごく狭義の一面しか表すことができない。どうしてもいろいろな抜けや語弊が出てくるが、きりがないのでここでほんの少しまた端折ろうと思う。
だからつまり、意識領域…正確に言えば意識下といえるが(※)、意識下は、朝私から愛と感謝の話を聞いて、彼女の無意識領域が私と繋がろうとし魅了されようと、無意識を開こうとした時に、
「いや、なんで自分が感謝なんかしなきゃならないんだ。今まで自分が一生懸命生きてきたんだ、自分の人生で自分で生きてきたのに、自分は何に感謝する存在でもない、途中から実は存在していたんだよなんてしゃしゃり出てきた無意識領域やら宇宙なんぞに、感謝するいわれはない。そんな話、誰が聞いてやるものか」
と言いたいのである。
それで、彼女の上に自覚では何やらわけのわからない疲れのような症状として表出されてきた。
※人の心を、ここでは3つに区分けしたい。自分が自分であると自覚して思考をしている部分である意識領域、自分の自覚にはあがっていないが意識を守ろうとし、色々な反発や抵抗を起こす意識下、完全に人の心の水面下にあり、内臓の感覚なども司る無意識領域。
ちなみに、彼女は今までの半生でも、どうやら意識の抵抗を疲れとして感じる(疲れという感覚、症状で表現する)ということは常套手段としてパターン化してきてもいた。そして私はそれを何度もいろいろなシチュエーションで見て分析してきてもいた。だからこそ、本物の疲れではなくラケット感情のように繰り返し使ってきている「疲れ」であると判別できたし、そもそも私には、その意識下の声がそれそのものとして、聞こえてもくるのである。
彼女は今でこそ、私という無意識領域の感覚と長く付き合っており、それ(私)を通して、意識の上ではだんだん気付こうとしてきているから、今朝会話をしていた時も以前のように激しい自分でも気付かないような抵抗にはならず、私の話を聞いてそこに在る愛のエネルギーを受け取ろうとしてくれるようになったし、昨日も深い話をし、その前には彼女本人が自分の意志でそのきっかけとなる男性の動画を見て、感動できるようにもなっている。
…しかしながら、「意識下」というのは、まだ<怖い>のである。
これだけ長い年月、表面的に愛だ感謝だと言われ教え込まれていた”消耗するエネルギー”の方を本物だと信じてきたのだから、実は全く無理のない話だ。
だから自分(意識領域・意識下)にとっては”突然しゃしゃり出てきた”無意識領域だの宇宙だの(いやそれ自体が本物の愛と感謝そのものなのであるが)、実は自分自身もその偉大で広大な一部なのだということもまだうまく知らないから、今まで一生懸命生きてきた自分の人生と思い込んでいるものを、無意識領域やら宇宙やらにとられてしまうのでは、とって代わられてしまうのではないかと感じてしまって、怖いのだ。
保守的な意識下は意識を必死で護ろうとしてくれている、が、広大な無意識領域(真の自分自身)を信じて任せてしまえば全てが解決し解放される
しかし…、違うのだ。
意識下は、無意識領域やら宇宙やら、つまり本物の愛や感謝が突然ぽっと現れて「自分が本物だ」などと後から言い出しているかのように聴こえるかもしれないが、無意識領域や宇宙は最初からずっと意識領域と共にいたし(それどころか意識領域が誕生する前からである)、意識下は自分が生きてきたと感じている半生も、ずっと無意識領域・宇宙に支えられ守られて、共同作業でやってきたのである。
そして、意識領域が協力してくれて意識領域(社会や物質世界と対峙してくれている仮面)を通すからこそ、無意識領域や宇宙は物質世界でも莫大な力を発揮して意識領域やその器(身体)を助けることができる。
それでいて何より、意識領域は広大な無意識領域や宇宙とそもそも一体なのである。だから、意識領域も含めた広大な無意識領域や宇宙自体が、真の自分自身なのだ。
これは少々邪魔な例えかもしれないが、人間の身体に例えるとわかりやすい部分があるかもしれない。
五体満足な人は、自分の器の身体を、全て統括して何不自由なく動かすことができる。だが、腕一本、もしくは足一本だけが反発して「自分は自分ひとりで生きているんだ」と勝手な行動をしたり全く動こうとしなかったら…どうなるだろうか。
手や足それ自体も実際は自分一人で生きていると思っていても手一本足一本では動けない、だから手や足自身も困るし、手一本足一本協力してくれないだけで身体全体はまるで動けなくなるから、その人全体も大変に困る、生きづらいことになるだろう。
その人自身も手(足)一本が協力してくれているから自分が全体を統括できるのだと知る。
そして手一本も実は自分だけではなくこの人の身体全体と繋がっているからこそ、そして協力して連動するからこそちゃんと動くことができるどころか大きなことができるのだと知る。
宇宙や無意識と、意識領域の協力関係も同じなのだ。
そして宇宙・無意識領域は、意識領域をとてつもなく愛して(そもそも愛のエネルギーそのものであるからして)、意識領域が感じきれないほどの(意識領域が処理できるデータ量の何倍もの)大きなエネルギーで包んで守っているし、意識領域が恐らく想像もできないようなほどの感謝をしている(それこそ感謝のエネルギーそのものなのであるからして)。
そしてそれは、意識領域が感じてくれようと感じてくれまいと、受け取ってくれようとくれまいと、いつどんな瞬間でも、常に、なのである。
そして……例えば、先ほどの「身体」の例をもう一度とると、ほんの足一本ちょっと麻痺が残っていたり突然力が全く入らなくなる時があったり、ほんの小さな肺一個、心臓一個、うまく動かなかったら、あなた全体はとてつもなく困るのではなかろうか?
無意識領域と意識領域のその協力関係、連携が見事に成り立つと、とてつもなく大きく人生が変わるのであるが、それだけではなく…
意識と無意識の連携が見事に成り立つと、つまり愛と感謝のエネルギーを真に感じ、繋がると、宇宙全体無意識領域も意識領域も、人生信じられないほど身体が軽くなって楽になるのだ。とてつもなく生きやすくなる。
(私はこの奇跡的体験をした後、解放される度に、「この世での役割を終えて肉体を脱ぎ捨てたらこんなに軽くなるのだろうか」と心底から思ったほど軽くなった。「軽くなる」というのも言葉の枠、表現法のひとつではあるわけなのだが)
また、これもひとつの物の言い方でしかないが、ただ、シンプルな、愛と感謝、つまり根源的エネルギーそのものの、丸い光の玉になる。とてつもなく楽になり心地良くなり、生きやすくなる。
そして意識下は「それでも魂(目に見えない世界)の話だろう」と反発したいかもしれないが、実はこれも違う。
寧ろ地にどんどんと根を張り、物質世界でも日常生活も仕事も活動もとてつもない勢いで効率よく回せるようになり、それでいて歩くために足を一歩出すようなことだけでも「今ここ」というもの瞬間全てが芯から楽しく感じるようになるのである。
つまり意識領域それ自体も、というよりそれ自体こそが(何かを感じて意識をするというのは意識領域の特権であるからして)、楽しく嬉しく心地良くなるのである。それこそ身体でもそれを感じる。
決して魂世界(スピリチュアル)の話ではないのだ。
それから、私は意識と無意識の関係を会社経営にもよく例えているため、この例えを知っている私のクライアントさんは私の言わんとしていることがおわかりになりやすいと思うのだが。
会社というのは、社長(意識領域)ひとりでは、ひとりきりしかいなければ、たった1日すらも回せないだろう。
現場を回してくれるたくさんの社員やアルバイトたちを雇い、現場をうまく切り回してもらって連携する必要がある。
だから雇った彼らに常日頃から感謝と喜びで満たされて接し、労い、この時間からこの時間までこれをして次これだけの時間でこの活動をしてくれという指示(大枠づくり)や休息(睡眠時間)や報酬(栄養補給)、健康管理などを確保してやって、それであとは自分はただ会社の「顔」として君臨し、現場を監督し、完全に信頼して任せる。
そうすれば現場を切り回す人たち(無意識領域)は、立派な社長だ、こんな社長が世に出ないでどうすると張り切って仕事を見事にこなすだろう。
そして社長もそうやって現場の人たちと喧嘩を売ったり買ったりすることもせずいつも現場の人たちが心地良い態勢を整えてあとは信頼して任せきることによってこそ、会社の経営方針や展望を夢見ては設定することができる。
そうして、設定して「この会社をもっと大きく素晴らしくしてくれるのは君達だ、君達なら私を連れて行ってくれると信じている、毎日ありがとう、一緒にやっていこう!」と、夢と希望を託すことで現場の人達は本当に本領発揮して大変な連携で物凄い能力を発揮してくれる。
愛や感謝、真の自分自身(魂や無意識)が運んでくれる”最善の道”を信じることが怖いひとたちへ向けたい
だから、意識下の部分では、まだ怖い部分が条件反射的に出てくるのかもしれない。いや、寧ろ疑わねば、という義務的に意識の抵抗を出して、結果的に子供のように反発してしまったりしているかもしれない。
当たり前だ。それだけ、自分の半生の中で、社会に対峙する中で、「愛や感謝」というものが条件付きのものであるのだとあらゆるところで教育され、信用できないことがたくさん起きてきたのだ。それだけ苦しい思いをし、形式上の消耗エネルギーの愛や感謝に自分のエネルギーを搾取されてしまわないために、本物の愛と感謝(本当の自分自身)を感じることすら閉ざしてきてしまったのだ。
しかし、もう、抵抗しなくてもいいんだ。…と、意識下に話しかけてやって欲しい。あなたは必ず最善へ向かう。あなたの無意識は(殊にこの記事をここまで読んでくださっているあなたの無意識は)、あなたが思っているよりとてつもなく優秀(この言葉しか出てこないが、社会的に言われる相対的な優劣ではなく、自己実現力にかけてという意味である)である。
信じてくれて大丈夫だ。あなたの無意識…つまり未来のあなた自身と私が保証する。
それでも怖い人は、この記事と前回の記事を、時々、ゆっくりと、読み返してみていただくと良いかもしれない。
そうすれば、今まで必死に虚勢を張って社会からあなたの純粋な心を守ろうとしてきた意識下も、
「ああ、もう遂に、晴れて、がんばって抵抗する必要はないんだ」
と、ゆっくりと、溶けてきてくれる。
本当はずっと選び取りたかった、でも虚勢を張って突っぱねてきた感覚を、道を、選んでいいのだ。無意識領域全体が、宇宙が、保証するから、もう、遠慮なく飛び込んでいい。
追記
これは今回例に出した女性の過去にあった話だが(この記事の中ほどにも少し書いたが)、意識下はもしかしたら、無意識・宇宙と繋がる、つまり根源の愛と感謝のエネルギーを感じるようになると、ストイックになるのではないか、謙虚になって自分のプライドもなくなるのではないか、聖人君子や即身仏のようになってしまうのではないか、いや、そうなってしまうぞ、と、意識に声をかけることで一生懸命抵抗を起こしている部分もあるかもしれない。
実際そういうイメージを持っている人は多いように感じる。
なぜなら、私が事あるごとに論じている意識と無意識の連携、魂・無意識・身体・意識の方向性の一致、概念の解放、根源のエネルギーや宇宙と繋がる、というのは、いわゆる「さとり」といわれるものに繋がるからだ。
そうするとどうしても岸壁の上で霞を食って暮らしている仙人や、チベットの修行僧のようなイメージが付きまとう。
だが、これも実は、違う。
一言で言えば、もうそんなことも関係ないほど満たされてしまうのだ。
そして自分自身が愛と感謝の、つまり”存在するだけで増幅するエネルギーそのもの”の塊になるわけだから、決して無欲になるわけではない。
ただただ”今ここ”の瞬間に無心になり続けている(人事を尽くして天命を待つ、状態を常にこなしている)だけだから、別に欲を手放しているだとかそんなわけでもない。
ちなみに私自身の感覚では、寧ろ物質世界における欲は増えている気さえする…
寧ろ、これは少し不思議な話に思われるかもしれないが、魂的にも物質的にも、わざわざ欲を出すと言う演出をしなくても必要なものが全て入ってきて過不足なく揃うようになるのだ。
”人事を尽くして天命を待つ”この言葉も私は良く意識領域の役割を表す表現として使うのだが、人事を尽くして(いつなんどき、次の瞬間、宇宙や無意識が何を用意していて与えようとしてきても受け取ることができるぞという状態に常日頃から準備しておくこと)いれば、天命が遠慮なく降ってくる、そして必要なものは過不足なく天が手配してくれるのだ、こう考えるとまあ不思議な信じがたい突飛な話ではないのではないだろうか?
そして…何もしなくても必要なものが集まってくるがゆえに、人から見れば確かにもしかしたら「この人は文句も言わないし欲しい欲しい騒ぐこともないし、謙虚だ」と見られるかもしれないが、自分としては必要かそれ以上のものが十分入るからわざわざエネルギーを消耗することを択ぶ必要がないし、それに、ちっぽけな一部分だけを自分だと思って塗り固めていたプライド…人から傲慢だと思われるプライドではなく、真の意味での決して揺ぎ無い、そして傲慢ではない、「ありのままであるがゆえの」、本物のプライドが奥底から根付くようになる。
そして、前回の記事の中でアラブで爆撃を受け続けている地域にいる人たちの話を入れたが、周りに対しても何に対しても、勿論表面的には色々なことを思ってみるという演出的な体験はしたりはするが、根源の愛と感謝のエネルギーと繋がっていると常に根底から感謝と愛が湧き上がって感謝と愛に包まれ絶対的に守られていることを感じているようになる(※)から、謙虚とかそういう問題でなく何より自分自身が幸せになるし、周りにもそれが常に伝わるから、誰と接しても物質界的にも魂的にも信頼を置かれる存在になる。
※根源の愛と感謝を知り、自然とそのスタンスに立って生きている人は、例え自分が目の前の相手にどれほど理不尽な目にあわされていても、それが魂の片割れである(自分自身の鏡である)ことを知っているし、言葉でどんな理由付けもなく、どんな状況にあってもどんな環境や相手に対しても、むろん人間として意識領域として表出してみせる表面的な感情はあれこれあるものだが、しかしそれと同時に常に奥底から湧き上がってくる愛と感謝のエネルギーを感じている。
だがしかし、念のために加えておくが、これは例えば幼い頃から親に虐待を受けながらそれでも親に逆らったら生きていけないから親に感謝し愛していると自分で思い込んでいる種のものとは根本的に違う。このような例の愛と感謝は”自分が生きる為”つまり条件付きの愛と感謝、つまり社会的表面的な手段としての愛と感謝であるから。
…詳しく細かいところは全て省くが、例えばこのアラブの人達の(根源的な)愛と感謝は、この辺りは完全に哲学的な話にはなるのだが、イエス・キリストが理不尽にも重罪人として(しかも本当の重罪人の釈放と引き換えに)十字架を背負って晒し者として歩かされその十字架に磔にされ全身に杭を打ちこまれながらなお<主よ彼らをお許しください、彼らは(意識の抵抗で)自分が何をしているのかわからないのです>と心から祈ったのと同じ類であろうと思う。
しかしまあ……ここまでに晒されたら、もしくは今現代の実際爆撃を何年も受け続けているアラブの地域、ここでは報道こそされていないが現実問題、大げさな話は一切なく家族みんな爆弾や重金属汚染でぼろぼろにされ(湾岸戦争症候群で知られるが、全身にあらゆる酷い症状が出続けるのである…アメリカ兵にも多く出ているし、戦地を縦断した私の縁者も明らかに戦地で受けた重金属と放射能による後遺症でもう20年苦しんでいるのだが)、毎日我が子の呼吸困難など見ているしかない上に自分自身もぼろぼろであらゆる症状にまみれながら安全に暮らせるどころか壊れていない家すらない、そんなことを強いられ続けていたら……それでも「私達には神様(宇宙)がついているのだから、幸せだ」と感じることができるかどうか、と言われたら…
私などは、このようなことを伝えていながら到底、まだまだ自我まみれで、宇宙に委ねきるということなどできていないのかもしれない……と、感じることもありつつも、しかしながら、これもこれで今の私の段階であり、そして、私に必要な、そして私が与えられた役割を果たすべき環境を与えられたから今があるのであり、全てが宇宙(魂全てが繋がった無意識領域)の計画・采配なのであろう。すべての人間がイエス・キリストのようになってしまったら、魂全体に学びもないのである。
これは別に開き直りでもなんでもなく、つまりは、根源の愛と感謝と繋がるということは、今ことここに連れてきてくれている偉大なる力(宇宙・無意識…つまりは自分自身)を認め感謝し、信じて委ねて、今が最善である、と自然と揺ぎ無く感じていることができる状態になることなのである。
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