道端の花や桜や星空は、「目」でしか見えない?―目や耳が「健常」でも実は見えていない聞こえていない、それ自体にすら気付いてもいない人が多い現代日本

ー歌のない音楽を良いと思うのと花木を良いと思うのは同じものだが。今の人は目隠しされたら花木の良さがわからない。ー
とあるかたの言葉の引用。


視覚機能発達不全での全盲状態、 白杖生活の私は、 視覚で楽しむということとは無縁です。 が、快晴の空、澄んだ星空、星も好きですし、雪景色も。 梅見や桜見も好きです。

白杖の閉眼単独歩行だけれども、自然公園に行きたい感覚どころか、突然道端の街路樹の前や四季折々の美しい木々のあるはずの敷地の前で立ち止まりたくなる時がある。 言語化して説明できない感覚だが、美しさが身体を通して入ってくるかのような驚き。
(ちなみにこれは、御幣も多いがわかりやすい端的な言い方で言うと、あくまで街路樹があるとわかっていて止まるのではなく、何か奥深い驚きのようなもの―これまた、表面的な不安や恐怖とは次元の違う感覚―があって立ち止まりたくなる。立ち止まると、植物の多い敷地の前であったり、街路樹の前であったりする、というような、意識、自覚としてはあがりきらないもの。)


ちなみに、歌のある音楽の場合は本気で「歌」しか「聴こえていない」人も、現代人、多い。 伴奏があるはずなのに、聞こえていない。 聞く、も、見る、も、実は「目」や「耳」ではないからね。 目や耳が医学的に正常でも、見えていない人聞こえていない人は今、本当に多い。


また、ふと思った。 私は、学生時代、からすたちに今日の天気や今後いちにちの天気の移り変わりを教えてもらっていたし、幼い頃から学生時代から、私は晴眼者と思われ視覚情報処理ができていないのに晴眼者社会でもまれている中で、物理的動きに関しては、ずいぶんと鳥たちや植物たちに助けられていたなあ…。

本当に、今思えば、だ。 顕在意識での自覚は遅い。へたをすれば人生の間中、気付かない(自覚まではのぼらない)可能性だってあった。

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