対人支援者に前提として必須であることのひとつ
私もたまにごく表面的にもごく基礎的当たり前のことを書くが、
まず、自分自身の中に起こっている心の現象や今現在の心理がなぜ起こっていてその下に何があるのか、
せめて自分自身(自分自身で自分自身を常に診ているセラピスト、自分の潜在意識の内なる医師)で、
理屈ではなく理の通った論(理論)でちゃんと言語化して客観的(主観ゆえの客観ごっこではなく本当にフラットな目からのという意味)に説明できる段階に至っていなければ、
つまり自分自身の潜在意識をまずちゃんと見晴らしよく観察でき扱うことができる状態でなければ、
対人支援の中でも特に心理領域、クライアントをとって他者の潜在意識に関与するなどということは、言語道断、無責任の極みである。
できれば更に言うなら、自分の心理やその下にあるものを自分でちゃんと説明できる、だけでなく、その下にあるものが建設的なものでないならば、更に更に建設的なものへと要するに常に自己心理療法もできる状態であることが望ましい。
どんなに少なくとも、自分をフラットに(そして視野狭窄でなく)観察できない、自分自身を扱えない、いわば自分の手の親指一本分くらいだけしか自分だと認識できておらずその部分しか動かせず何が起こっているかもわからない子供赤ん坊の状態段階で、如何にしてそれよりも更に外側にある「他者の人生」をどうやって診る、関与する、ましてや建設的なお手伝いをしようというのか。
無責任の極みである。
自分のあらゆる感情や生きづらさ、自分のふとした言動や行動の下にあるもの、自分の心のしくみ、セラピストやヒーラーとしてやっているならば、当たり前にそれくらいまではわかる。
それはそうだろう。「その」専門家(のはず)なのだから!
自分の内側に起こる感情や心理現象が出てくる根本が視えず、つまり自分自身を深く精確に「診る」こともできずに、他者の潜在意識を探ることができるとか探る手伝いができると思っている人たちも現代日本には多いが、これほど矛盾した、これほど「本人たちこそが病んでいる」証拠の現象はない。
(ちなみに日本人のそういう中には、自分で自分がまるで視えていないのにそれを無自覚に棚上げ―この現象自体を心理の防衛反応、ディスカウントともいう―して、『他者を診る』ことにすり替え無理やりみようとして、実は自分こそが診て欲しい、だから結局無自覚のままクライアントの潜在意識に楔を打ち込んで行くというプログラム、心理ゲームが多い。)
できれば、自分に起こる身体症状(病気ももちろん、肩こり腰痛などからウイルス性のものなども含め)の理由までわかる。
潜在意識の見晴らしがよい(自分自身が全体になっており自己一致していて、”ちゃんと自分の人生を自分の責任と積極性で生きている”)と、すべてが自分の中にある(というより、自分自身の中で無自覚に「見たくないから受け止めたくないから目をそらす」現象が起こらない)から、そこまで視える。
(自分の中に無自覚にも「見たくない」「受け止めたくない」「受け止められない・受け止めきれないと思い込んでしまっている」部分があればあるほど、当然ながら他者の中の計り知れず大きなそれに、寄り添うことができるわけがないので、セッションの中で確実にどんどん歪みが起こる。そしてその歪みにも気づかないままセッションをどんどん捻じ曲げるという恐ろしい現象が起こる。)
「たまには基礎的当たり前なことを~」と書いたが、私は基礎講座や中級講座くらいまではどんなに少なくとも、テキストの内容と同時に「対人支援者として」「人として」当たり前のこと・倫理観といったものが入っていく(同時に、偏った狭い世界で身につけてきた認知の歪みや信念などがはずれていく)ように教え・共有を進める。
その中で、その「(自分の人生としての基礎的な部分)に、向き合おうとするかどうかの反応は現代人、顕著である。
どうしても「自分の根本部分への気付き(これは対人支援者として前提的な自分の中に眠る本物のホスピタリティや、人間としての根源哲学的倫理ともイコール)」に向き合うことを避けたがるがゆえに、何とかして私から表面的なとってつけたような頭でっかちな知識や技術だけをとっていこうとする受講生もいる。
しかし、そういう人は結局、自分が周りからひたすら搾取することしかできない(それでいて本人は本人自身からも搾取するため実は本人の顕在意識としては大抵”搾取されている”と感じるのだが)ので、自覚するかはともかくまず自分自身が生きづらさから抜け出せないままになる。
この状態(搾取状態、依存の三角形の3ポジション―犠牲者、救済者、加害者―を行ったり来たり移動し続けている状態)では、他者を扱うのは当然ながら自分を扱うのもまだ危険極まりない。
本当に自分自身の人生の中で「モノ」にしたい、自分自身の人生の中で土台・土壌・これからもどこまでも大きく大きく伸び続ける糧としたいと向き合う人は、本気で私からどこから出てくるものもまだ中にあるものも見たがり、得ようとし、吸収しようとする。
たまに、いらした時に自己否認していて、向き合えず、でも結局”自分の人生”で根本的に大事なもの(身体が訴えているもの)に気付き、もしくはそれに「気付きたい」と、改めて真剣に取り組みだした人もいる。
そういうひとは、まずは自分で自分自身に素直になることで、入り口に立ち返る。
そこにも気づかないひと、「気付こうとできない」「自分で気付こうとする道に入ろうとできない」ひとの場合は、これは受講生ではなくクライアント案件なのである。
ちなみに、催眠療法士の学びの中に、倫理規定のひとつとして、「自分の訓練した領域を超えることを扱ってはならない」がある。
これは、言うは簡単だが、意味とその実践(つまりその言葉を実際的に守ること)は、とてつもなく奥深く難しい。
ところで上記したような状態は、そもそも「対人支援」というもの自体が、まだまだ自分の領域を超えているわけなのである。
例え、「技法」だけいくら覚え訓練したとしても。
多くの受講生の場合はすべてが「自分の中に根本原因がある」ことを自分で気付こうとできる。
が、そこ自体を見ようとしないということなので、つまり、それほどに否認したいもの(心理療法案件)が自分自身の中にあるということなのだ。
心理療法では、もちろん、その状態段階にあわせて、無理なく向き合っていく順序も方法もある。