白杖使用者が忘れてはならないこと

白杖を手放すことができなくなってから、日々、思うこと。

私は、出かける時は必ず白杖は出すようになっているが、まだ、たまに、本当に慣れていて足裏の感覚だけでもわかるような徒歩数分の距離など、ついつい白杖を汚れさせたくない(地面につきたくない)がために、出さずに移動することがある。
とはいえ、最近ではそれも、シンボルケーンとして身体の斜めにはかざし、更にそれによって自分の身体の幅分程度は目の前の障害物がわかる(歩いていると前面にかざしている杖に先に障害物があたる)ために出すようになってはいるのだが。
私にとっては、このシンボルケーンとして出しているだけでも相当安心感が違う。
地面につかなくとも、身体の幅の分、身体の前にかざしておけば、多少、例えば足元の白線の感覚を足裏で見失い真っ直ぐ歩くことができずズレてしまったとしても、白杖のどちらかの先が電柱にあたったり壁にあたったりして、自分の位置がわかり、修正できる。また、やはり思わぬ障害物(とめてある自転車やら車やら何かの箱やら)に手や身体からぶつからずに済むというのは、大きな安心だ。

そして、何より、白杖を持っているか持っていないか、それだけで、全く違うことがある。
白杖を持っていないときや、まだ慣れているからもう少し経ったら広げられるようになどと折り畳んだ状態で持っているだけだったりすると、道路の障害物などだけではなく、「人」と非常に良く接触する。

つまり、白杖を出しているというだけで、それだけ気付いてくれてあちらから避けてくれている人が多いということ。

視覚が利いていない側からすると、ただぶつからないから気付かず…もしくはつい忘れてしまいやすい。
ぶつかっていないのではなくて、うまく歩くことができているのではなくて、道行く人たちが黙って「避けて」くださっているのだということ。

念のために記すだけ記しておくと、それでもやはり誘導ブロックの上で何人もの塊が屯していたり、店に並ぶ列が誘導ブロックの真上にできていたり、携帯電話か何かに気を取られながら誘導ブロックの上を歩いていたり、急いでいたりよそ見をしていたりで白杖に盛大に足がひっかかってしまったり、背中を向けてとまっているからお互い気付くことができず私の方が突っ込んでしまったり、そもそも白杖がどういうものかご存じないようで明らかに見えているのにまっすぐ正面衝突してしまうような人…などなども、いるにはいる。
しかしながら、それでも、白杖を出しているだけで、避けてくれる人がどれだけ多いことか。白杖を出している時と出していない時で、人通りの非常に少ないところであっても、劇的に変わるのだ。
(ある意味、それだけ、白杖を持っていない同士の場合はよそ見をしていたり向こうが避けてくれるものという意識で平気で突っ込んでくる人が増えている時代でもある……かもしれない。だから、白杖は持っていないけれども視野が狭かったり弱視であったり足や体幹や平衡機能、反応速度その他に障碍がある"外側からわからない障害”などの場合は非常に危険になっている、という点も言えなくはないかもしれないが…というよりも私自身もそれで苦労してきた身でもあるのだが。)


視覚が利かない状態であると、黙って避けてもらえても気付くことができない。
たまに道路を渡ろうとしていて自動車がわざわざ止まってくれたりした時には、音でわかるのでそちらの方面に向いて(向いてと言っても顔や身体の向きを変えると歩行が曲がってしまったりするので、気持ち向いているだけで相手からは気付いてもらえていないかもしれないが)会釈をしたりはするのだが、これが歩行者だと、わからない。
お礼も言うことができず、要するに通りすがる人たちの存在を完全無視で遠慮会釈なしにただ突っ込んでいくようなことになってしまう。


だからこそ、見えない存在たちがいつも常に私の歩行中の安全を助けて、支援協力してくださっているのだと、歩いている間中、せめて、決して忘れる瞬間があってはならないと、思う。
そして、心の中で、歩いている姿勢や態度で僅かでも少しでも、その存在たちへの感謝を感じ伝え続けて(おかしな言い方をすれば念を飛ばし続けて)いこう、と、思う。



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