音にも気付くことができなかった…?!―晴眼者と視覚障害者の「音」の情報処理のしくみの違い

いつものバスに乗るとき。
周りの車の往来の音も邪魔をしたのかわからないが、バスが非常に静かに来たらしく外に聞こえるアナウンスもなければバスの近づく「ぴっぽ、ぴっぽ」音もなければ、バスが止まるとき特有のぷしゅっという音もなく、ドアが開く音もなんだかわかるかわからないかくらいの音で…、
同じくバスを待っていたらしい人から、「〇〇行きですよ」と声をかけていただかなかったら、目の前でバスが停車してドアも開いているのに、わからず乗れぬところでした。

その前に一本なんと目の前で逃して、そこから20分その場で立って待った上で。

晴眼者が聞いている「音」というのは、ある程度視覚にも依存しています。
私の心身のメカニズム系統の講座をご経験だとメカニズム的にもはっきりお伝えしているものですが、視覚で日常生活の情報を判断されるかたは、実は音を聞いているときも…つまり例えば、目の前で人が話している、などというシチュエーションでも、その発音などよりも視覚情報(その人の口の動きや表情など)が優先されて脳では強く反応し処理されています。

視覚障害者は、実はその意味において、晴眼者のかたがたとはどうやら「音の聞こえ方」も違います。
「視覚障害者は目が見えない分、耳がいいんでしょ」というかたがたもおられますが、
これはあくまで、「集中力の比重が分散されず、耳から入ってくる音に神経を研ぎ澄ます」から、という意味であって、耳自体が良いわけではありません(ちなみに脳の「聞き取り」能力は、晴眼者であろうが視覚障害者であろうが人によります。例えば私はオーケストラの同時になっている音の種類はきき分けられますが、2,3人が同時に話していたらききとりはお手上げです。(笑))。

しかも、外を歩いていると、恐らく晴眼者のかたよりも、周囲の「ざわざわ」音が非常に容赦なく耳に入ってきてきこえていると思います。
というのは、遠くの工事の音であろうと、2本先の音響信号の音であろうと、道路の向こう側の車線のバスの音であろうと、晴眼者であれば視覚情報で「自分とは関係のない音」ということで無意識の段階でシャットダウンして、「脳処理をしない」という選択をしているのですが、視覚障害者は視覚情報を兼ね合わせて必要情報を取捨選択できないため、耳に入ってくる音はまんべんなく聞こえてきて、聞こえてから「これはどの音、これはあの音かな」などと判断することとなるのです。

そのため、都心のあらゆる音の溶け合うざわめきの中で、目の前に来た時に恐らくこのバスも何らかの音はしていたはずですが、普段より静かだったこともあり、気付かなかったのでしょう。
「〇〇行きですよ」と声をかけられたとき、驚いてしまいました。
「え、え?!バス、今、いるのですか?来ているのですか?」と聞き返しそうになって、ぐっとこらえ、(きっと来ているから言ってくれたのだろう…)と状況予測判断をして、お礼を言って前に進んだらバスのステップに白杖があたったので、乗り込むことができたのです。

そんなことで、視覚障害者は、実は音でも判断し損ねていたり、判断が遅れていたり、時には今回の私のように、気付いてすらいない、ということもあります。
それに、そもそも周りに人がいるかどうか、いたとしてもどんな人(同じくバスを待っているのかただ道を歩いているのか、など)かわかりませんし、方向や位置関係を的確に把握できないため何か尋ねたくとも話しかけることもできません。
当人が気付いているかもしれない、気付いていないかもしれない、にかかわらず、白杖使用者を見かけたらお声がけいただけましたら、本当に安堵することができ、大変助かります。
私も今回のお声がけがなかったら、なん十分たってもバスが来ない…と、混乱してしまっていたことでしょう。

街中でのお見守り、いつも本当にありがとうございます。

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