人生の手綱を自分で握るとはどういうことか/対人依存とは―裏に隠れた破壊的プログラム

私は、顕在意識と潜在意識の説明をするとき、また、人生という登山を例えるとき、意識領域(自我・自覚)を、目の見えない人だと例えることがある。
これは、私のクライアントさんたちには非常にわかりやすいと言われることが多い上、何を説明するにもほとんど同じ系統の例えを使うことができるので、なかなかに良く使う。

さて、前提的なところは、今までの記事の中でも大分書いているので省くが、人は誰しも人生という登山、もしくは階段の途中である。
しかし、その「人生の道(登山道・階段)」というのは、顕在意識の「目」には見えないもの。

そのため、人生の中での自分の可能性の見つけ方や、岐路で”自分の目的に近づくための”手がかりの見つけ方や現状の探り方、足元の情報の集め方、一歩先の一段目の探り方…と言ったような、いわば「白杖の使い方」、また、探ったところで階段をのぼるには片足を上げてバランスをとって体重移動をしながら登る…更にはそれだけの基礎的筋力も必要であるからその登り方や基礎筋力、などなどを、幼い時に身につけていく(いわば人生脚本)。
そしてその中には、人生の途上で迷った時や路面の情報収集がうまくいかない、つまり自分の可能性をディスカウントして見つけられなくなっていたり本音がわからなくなったときに、道行く人、そばにいる人に助けを求めてその人の手助けや情報を自分の人生の道の攻略の助け・足がかり・ヒントにする、そんなことをする方法も含まれる。

ただし、そんな上記のようなあれやこれやを、
幼い時に教わることができなかった人、
教わる環境自体はあったのだが何らかの理由で受け取れずに来た人、
受け取るフリをして実は身につけずにきて、大人になった今ひとりで自分の人生の手綱を握ろうとするとなぜだか自分のためにならないように白杖をぶん回してしまう人、
人生の途上で何らかの理由で身につけてきたやり方を捨てたり失ってしまった人…

などなどの人は、支援者、手引き者が必要となるわけだ。
その支援者・手引き者のことが、人生の登山で言えば、カウンセラー・セラピスト。
あなたに必要な白杖の使い方やら足元の探り方やら手がかりの用い方、その手がかりを使って目的地に行くための道を選択する方法、ここぞという時の周りの人たちの手助けの得方、などなどを今一度教えながら、現在進行形でも「あなたが自分の力で自分の人生の道を進んでいくためには、どうすればいいかね」というところを、一緒に考えてくれる軍師なわけです。


その中でも、「人生の道」における支援者・手引き者・軍師の場合は、クライアントさん本人が「ただただ、ガイドしてもらいたい。ただただ、一生くっついて捕まっていていいからおんぶに抱っこで連れて行ってもらいたい、連れて行ってくれさえすればいい」というスタンスの人には、支援・手引きしてはいけないことになっています。いや、そもそも、支援の方法がありません。
なぜなら、「人生の道」はその本人の道でしかないわけですし、セラピストの仕事というのも上述したように「本人が自分の力で自分の道で歩を進めることができるようになる」ための支援、であるから。実際視覚障害支援の手引き者だって、道端で立ち止まって困っている人の行きたいところを勝手に推測していきなり引っ張っていったり、手引き者が勝手にあなたはあそこがいいでしょうと勝手に決めて引っ張って行ったり、おんぶ抱っこをして連れて行ったり、しませんよね。
最初に、今ここで、何を選ぶか。そして何を選ぶかや自分の足元に転がっている可能性を知るために、「支援者(手引き者)に依頼をする」かどうかすらも、決めるのはクライアントさん自身なのです。

そして、ここはクライアントさんたちが本当にわかりにくいところなのですが、
本当に芯からあなたの味方で、本当にいつどんな時でも揺ぎなくあなたを見守り応援しているセラピストほど、本当に「あなたがちゃんと自分で受け取る体制を作って」「あなた自身からの依頼」がない限り、決して勝手に支援しません。それは、「支援」ではないからです。

あなたがもし、本当に「自分の人生の手綱を自分の手で握っていきたい」「自分自身の人生で困っている問題と向き合い克服していく」ことを望んで人生の軍師(セラピスト、セラピー)を必要とするなら、ご自身から「依頼」する必要があります。
例え相手が誰であろうと何であろうと、今あなたにできる方法(つまり物理的社会的な道理に則った方法)で、然るべき手順段取りを利用して、依頼をしてください。
でなければ、支援者側から勝手に、あなたの気持ちを勝手に慮って(本当に解っていようがいまいが、です)、あなたの人生に踏み込んであなたの手をとることは、できないのです。
特に、戸籍上、既に大人の年齢であったら、それは、あなた自身がご自身の人生の中で、自分からする必要があるわけです。これは…決してあなたが「解ってもらえていない、味方がいない、誰も助けてくれない、見放された」わけではなく、寧ろ逆…あなたのことが見守られているからこそ、あなたの人生やあなた自身の目的(つまり”自分自身の人生の手綱を自分でとっていきたい”)を尊重され応援されているからこそ、誰よりもあなた自身のためにあなた自身のことが考えられているからこそ、のことなのです。

私はもちろん、生きとし生ける命を必ず普遍的な意味で応援しています。
それと同時に、陰ながら普遍(宇宙的)に”応援”している(されている)ことと、実質の支援を ”あなたが” 受けるか受けないかは、別のことなのです。

もし、あなたが今、何か人生の途上で「困っている」ならば、私も、専門家として活動している身ですから、いつでも門戸を開いています。あなたが、あなたから、”社会的な依頼”の形をとってこられる限り、そしてあなたが”私にも対応可能な形で(つまり”あなたの枠”外やサービス枠外などではなく、正規に案内を出している形で)依頼をして来られる限りは、必ず私は、私の立場にでき得る限り、”あなたの人生において必要な支援と協力”をします。


さて、ここからは、どちらかと言うと支援者側の方々向けの記事です。

これも、例えばです。
たまに、人生の道を手引きしながら、今まで〇〇に向かいたいと言っていたので、その〇〇に向かうための横断歩道、しかも一本道で分かれ道などもない横断歩道まで来ました、とします。
「この横断歩道、渡りますか」と確認しているとき、

・この横断歩道、渡るか渡らないか?どうしようどうしよう?どうしたらいいの?どうして「わたりますか」って聞くの?
 ……などと、例えどのように提示やカウンセリングをしても、どうしても、どーーーーーしても、「〇〇に行くためにこの横断歩道を渡りたい、それを手伝ってくれ」と依頼したくなくて(したくない、という自覚はない)、ひたすら私に何らか関係のない質問をしてきたり自分の人生の時間をひたすら不毛な方向へ費やそうとして、なんとかして、なんとかして、手引き者に連れて行ってもらおうと全身全霊かけて画策するクライアントさんがいます。それでいながら「どうして私は〇〇に着かないの?どうして私は横断歩道を渡れないの?」とやってくる人がいます。

・「この横断歩道、どうして手前で右折できないの?」など、提示されて”いない”架空の道の話ばかりしてきて、とにかく話を逸らすことでカウンセリングの時間を全部使ってしまおうとしたり、メールカウンセリングはしていないのに何とかして連絡をして返事で無料カウンセリングをしてもらおうとしてしまう人もいます。
 これは、過去の既に通ってきた横断歩道の話をいきなり持って来たり、手引き者やサポートの方法について関係ないことを聞いて来たり時に攻撃してきたりすることもあります。もしくは、<目的>をいつの間にか見失って別のところへ行く道の話をし出したり手引き者や白杖と自分との関係性や(目的、と見せかけながら)夢などに一生懸命フォーカスし出したりすることもあります。
 まあ、これらの場合も一番目と全く同じですね。とにかく話を逸らして”イマココ”の問題をすり替えて自分の足元・目の前の道と向き合うことを避けよう避けようとしてしまうプログラムなのですが、しかしこの場合、ひたすら「依頼をせずに」相手から何か返さねばならないように仕向けてくるので、相手から返ってきたもの出てきたものを絶対に自分の責任とせず、相手が押し付けてきたものと見做します。

これらは、なかなか徹底的に対人依存のあるクライアントさんが特徴的に呈してきます。
セラピスト側は、これは、絶対に引っ張ってはならないし、かといって、クライアントさんの表面的な話に乗って横断歩道の前で長々と立ち話をしても、どちらも致命的。クライアントさんを、「クライアントのプロ(クライアントであるためのクライアント)」に育て上げてしまいます。
しかし、だからといっても、こういうクライアントさんは、なんとかしてセラピストがボロを出すまで、つまりセラピストが自分を決め自分を背負ってくれるまで、粘り続けます。
それでいて、何とかしてくれと藁にも縋って目的地へと行きたい(なぜ目的地へ行けないのか)かのような態度を見せ続けます。
しかし、セラピスト側としては、クライアントからの「依頼」がないので、動きようがない。しかし、クライアントさんはその「依頼」をしたくないので、粘りますし、そもそも「依頼をしていない、しようとしない」自分に気付きません。気付きたくありません。


これは、一体何が起こっているのか。
クライアントさんの内側では、実はこれ自体が人生脚本プログラムが発動している状態。
つまり、「何としてでも自分の人生の手綱は他人に握らせよう」というプログラム。

人間というのは、例えどんな些細な言動行動であれ、必ず理由と目的があって動いています。
この時のクライアントの内側では、実は目的が違う。
この人の目的は、「自分は自分の人生の手綱を自分で握り人生の道を自分で歩めるようになりたい(セラピーを望む)のではなく、何としてでもセラピーもしくはセラピストに依存をする。」という、対人依存自体が目的となっています。
しかしながら、セラピストに対しては、「自分は心理療法を受けて自分の人生の困っている問題と向き合って解消していきたいのだ」と言っておかないと、セラピストは相手にしてくれない。けれど、「依頼」をしてしまえば、本当にセラピーを受け取らねばならなくなってしまう。つまり、セラピーで自分が対人依存でなくなってしまうこと自体が困るわけなので、実はセラピーが目的ではないのです。しかし、対人依存セラピー依存はしたい(更には「どんなセラピーでも楽にならない自分」を証明したいというプログラムも多い)ので、口では、「向き合いたいんです、セラピーを受けたいんです、克服したい、自分の人生を自分で手綱をとっていきたいんです」と、表面的には粘ってきます。


この時、セラピスト側に、もうそのクライアントととっているカウンセリング枠やメール枠がない(本人の依頼がない)場合は、どうしようもありませんが、こういうクライアントさんは大抵、ぎりぎりのところで、相手(セラピスト側)が何らかアクションをせねばならないような隙間を狙ってきます。
こういう場合セラピストができることは、恐らくたったひとつだけ。

エリクソン的な方法をとるしかありません。
表面的にはどちらの関わり方もせずに(つまりゲームには極力乗らずに)、それでいて、クライアントさんの「対人依存プログラム」自体に刺激を入れ変容を促す。それも、物凄く短く効率的で柔らかいやり方で。
(もちろん、ラポールがかなり深く構築されている場合でなければできませんが)

いずれにしてもセラピストは、もしアプローチをするならば、本人が横断歩道を”今”渡りたいのか渡りたくないのか、本心を聞き出す他ないのですから。けれども本人の顕在意識は絶対にそこには気付きたくないから、もう潜在意識との対話以外ないわけです。


依存とは、という記事をついこの前にも書きましたが、対人依存(自分の人生の手綱を何としてでも他者に握らせようとするプログラム)は、奥深く、自分では自覚を持つことのできない大きな問題のひとつです。更には、前回の記事でも今回でも記したように、それをもし外側から言われたとしても、本人の顕在意識が断固として気付きたくないので、気付くことができません。気付くことができなくなるためにカウンセリング効果やセラピー効果を受け取るわけにすら行かず、とてつもなく狡猾な心理ゲームを繰り広げることとなります。

自分の人生の課題・問題を克服し、本当の意味で自分の人生の手綱を自分でとっていくためには、どのような形にせよ自分の抱えている問題と結果的には向き合い自覚していく必要があるため、「気付きたくない」こそが一番上に強大に来るこの手の問題は、本当に複雑かつ慎重な、潜在意識の深いところにアプローチする方法が必要となります。

また、この手のプログラムを内側に培ってきてしまっている人は、カウンセリング自体が不向きです。
カウンセリングとは、一番身近で誰にでも推奨される心理療法のように思われている側面がありますが、カウンセリングも心理療法ですので、カウンセリングが適する人、適さない(実は寧ろ逆効果になる)人がいます。
しかし、人と人は対話(カウンセリング)で疎通し成り立つわけですので、問診すら難しい、という、非常にシビアなわけですね。

しかしながら、同時に言うと、今回の記事の例のような場合はなかなかあからさまでわかりやすく見えるかもしれませんが、実はカウンセラーやセラピストにもなかなか気付かれない形で、水面下で相手を操って自分のこうしたプログラムを専門職相手に進めようとしてしまい、いつの間にかセラピー依存、セラピスト依存に陥っている人が、現代日本人には実は非常に多くなっています。


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