さて、世界。

あやうい年代、というものがあって、それは世の中では思春期だとかの若い時間を指す。

思い返せば、私にもあやうかった頃というものは確かにあった。そして今も多分、そこから地続きのところにいる。悲しいことに、まるくなったとか、そんな時代があったとか、そのあやうさと自分がかけ離れてしまったわけではない。

あやうさは多分、世界と自分がどうしても違うもので、世界と薄い皮膚で区切られたこの自分という存在について考えられるようになって、初めて生まれるように思う。自我が生まれて、自分が世界で一人なことに気がついて、溶け込もうと努力したり、自分はこれでいいんだと認めたりしながら、世の中との折り合いをつけていく。

自分はこれでいいんだと思っていた頃、服も髪の色も今よりも派手で、身に付けるものによって私は守られていた。ブリーチした金髪に、少女趣味のボヘミアンな服装。好きな服を着ることで自分らしい自分を好きになれた。

社会に出てからは、「現代社会」が自分とはどうしてもかけ離れたところにあるということが切に感じられる。属しているコミュニティに不自由さを感じるとき、あやうさが蘇ってきて、自分がどこに行くべきなのか、似合いもしないオフィスカジュアルで、馴染んだふりをしながら居場所を探してしまうのだ。

環境に適応することが望まれるシーンは多い。もちろん、自分にできる最大のことを行ううちに、見えてくるものはきっとある。それでも、それは今の場所に留まるために必要なことではなくて、自分が自分としていられる場所にいずれは行くため、自分の手で自分の居場所を生み出すための手段でしかない。

多分、所属に安心感を覚えられない私は、このあやうさを抱えたまま、この先自分の居場所を作り出していく必要がある。世界とはかけ離れてしまっても、自分が自分として生きていくために。それは一種の孤独だけれども、否定も肯定もせず、ただそばに居続けてくれる家族の存在があるから、この先もきっと大丈夫だ。世界なんていらない。

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