「あたらしい船(物語)」④
緊急事態宣言が出て2日目。昨日の昼にはスーパームーンがのぼっていたようですね。
外出自粛ムードですこし必要の用事に出かけるのもなんだか気が縮むような想いがしてしまいますが、いま暫くの辛抱…。乗り越えられますように。
(「あたらしい船」①〜③へはマガジンから…)
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「ねぇ、回転式のカフェって今の時代に流行っても良さそうなもんだと思わない」
焼き鳥屋の暖簾は今日も紅く、有線放送は扇風機の安っぽい音に殆どかき消されていた。ケーコさんはそう言いながら、ぼんじりの串を振る。
「昔あったじゃない。八十分くらいかけてゆっくりとワンフロアが回転する展望レストラン。見栄えを気にする今の時代でこそ流行っても良さそうよね。メリーゴーランドのように回転するのよ。もしくは中華テーブルのように。お店ごと回転するのよ。ゆっくりゆっくり。少しずつ景色が変わっていくのって面白いじゃないの。ね」
「あぁありましたっけね」
マエダさんが応えた。エアコンの故障した店内は蒸し暑く、マエダさんは顔中に汗をかいていた。額の汗が頬を伝って、顎からジョッキへぽとんと落ちる。
「今の時代にやるのであれば、町並みをそのまま見せるのではなくて、回転しながら見える景色までがお店の造りであると面白そうですね。四角い囲いの中で、ここの壁は春、ここの壁は夏、というように構成して回転しながら色んな景色を見られる」
マエダさんは今日もずっとグラスの脇にチェック柄のハンカチを置いており、喋るついでに額を拭う。
「もしくはもういっそ、大人のメリーゴーランドとか言う名前で木馬に乗りながらお茶とか飲めたら良いのにね。夜の遊園地でそういうサービスやってくれないかしら」
「大人のってつけるととたんにいやらしくなりますね」
「大人の幼稚園、大人の遠足、大人の課外授業、大人の授業参観、大人のバレエ、大人のイチゴショートケーキ」
ケーコさんはカウンターの下でつまらなそうにつま先を振りながら淡々と言った。
「大人の枝豆、大人の人参、大人の海、大人の教室、大人の消化器、大人のジェットコースター、大人の遊び場、大人の夜」
マエダさんもそう言ってハンカチで額の汗を拭った。九月の第三週が終わろうとしていた。
「つくねとハツ。塩で」
わたしは言ってハイボールを飲んだ。
「そう言えばこの前の日曜日だったかな。サクマくんとユカちゃんを見かけましたよ。そこの洋食屋さんで二人で愉しそうに食事をしてました。サクマくんも幸せだね、あんな可愛らしい笑顔の女性に追いかけられてさ。付き合っていないのが信じられないよ」
マエダさんの言葉に、わたしはケーコさんのハーパーを見やる。ボトルはまだ入れて一週間ほどのはずであるが、早くも底をつきそうだった。底に残った僅か一センチほどのべっこう色がつまらなそうに光っている。
「ユカちゃん、素直よね。まだまだ男を知らない子供みたいにあどけなくて。ね」
「うん」
満足げにうなずいたマエダさんが二の句を次ぐ前に、ケーコさんはオーナーに「氷と炭酸」を頼んだ。
「どうなの、マイちゃんは良い人いないの」
マエダさんのカシラサシをつついて、ケーコさんが言った。マエダさんはホッピー用に焼酎をお代わりする。わたしは炭酸で割ったスコッチを口に含んで、それからおどけた。
「そこなんですよ、いないんです」
大げさに眉を顰めて、大きく頷く。するとケーコさんは
「どういう人がタイプなの」
と言った。
「皮肉っぽくてどら焼きが似合う人」
とわたしは答えた。わたしがこれまでに好きになれた唯一の人だった。
「また随分と狭いこだわりね。そうじゃなくて、もっと易しい基準はないの」
ケーコさんは言って笑った。
「まじめな人」
「まぁまた随分極端ね。まじめな人なんてそこら中にいそうなものだけど」
ふふ、わたしは笑ってもうひとくちハイボールを口に含んだ。
窓の外ではガールズバーのキャッチが面倒臭そうに煙草を咥えている。
皮肉っぽくて、どら焼きが似合う人。
その人はヨコタさんと言った。
ヨコタさんとは十九歳の時に始めたアルバイト先のパン屋で知り合った。ヨコタさんはそこの社員で、年はヨコタさんのほうが三つ上だった。いわゆるぽっちゃりと言った体格で、自分の中のヨコタさんに対する好意に気がついてからは、ヨコタさんに会うたびにその大玉のようなお腹に飛びつきたくなった。
ヨコタさんはいつも文句ばかり言っていた。
「今日もさー朝ゆっくり過ごすためにすごい早起きしてさー、だからなんだけど、すごい眠いわ」
「なんで今日こんなに冷凍多いんだろうね。こんなに取っても冷凍庫に入らないのに」
はーもうもう。いやんなっちゃう。いやんなっちゃう。
ヨコタさんは十分おきにそう文句を言っていた。ちょっと荷物を運ぶとき、ぷりぷりと「はーもうもう。いやんなっちゃう」、そう言って腰をかがめているのを見て、わたしはしょうがなく思いながらもその大きなお尻に愛おしさを感じていた。
「どうしてこういっつも家って汚いの」
「なんでアイスなんて食べてるの。そういう出費が重なるからうちは貯金がないんだよ」
帰宅の第一声が身体の芯からうんざりしたような文句の人がいる。わたしの父と母は毎日のようにそれを繰り返す。文句を言ってはその事に疲れ、その事に気が付きながらも文句はやめない。
しかしヨコタさんの文句はいつでもヨコタさんの茶目っ気によるものに思えた。だからヨコタさんの文句にわたしを始め、アルバイト達は和まされ、ヨコタさんが時々本気で注意を促すとわたし達は素直にそれに従った。
「ヨコタくんはね、金があるから。それをウリにすれば良いよ」
恋愛には全く奥手で、これまでに彼女など居たことがないというヨコタさんに、いつだったかタヌキのような容貌の店長は言っていた、
「マイちゃん、ヨコタくんは堅実な男よ」
冗談らしく阿呆に頷いて言った店長に、わたしは軽く会釈してバックヤードを出た。
ヨコタさんの事は二年近く好きだった。しかし結局想いが募りすぎた挙げ句に、わたしの方がヨコタさんがちょっと他の女性と話しているだけで嫉妬してしまい、その嫉妬心に自分で疲れて最後にはヨコタさんをキライになってしまった。
一度だけ、二十一歳の頃、ヨコタさんが他店舗に移動してからふたりで出掛けた。六月の暑い日だった。待ち合わせの場所に行くと、暑いから、と言ってコンビニで買ったらしいお茶をくれた。その心遣いに嬉しさを感じたものの、その日のわたしの鞄は財布と本でもういっぱいになってしまうような小さなものだったので、結局その後その五百ミリペットボトルは手で持っていなくてはいけなかった。
ふたりで新大久保へ行き、チーズタッカルビとハットグを食べた。それからドン・キホーテとデパートをウィンドウショッピングし、最後にスターバックスで季節のドリンクを飲んだ。
この日も途中に立ち寄ったコンビニで、無愛想な店員からガムを買った後で、店を出てからヨコタさんは文句を言った。
「いまの接客は二十点」
ヨコタさんらしくないと思った。
「今度はトッポギを食べよう」
そう言われて夕方に別れた。別れてから少しして、また「トッポギいつ行く?」と連絡がきたが、わたしはもうまともに返事を出さなかった。
夜も十時半を過ぎ、ケーコさんは何度めかの「氷と炭酸」を頼んだ。
店の外ではガールズバーのキャッチが近くのコンビニで買ったらしいかき氷を暇そうに食べていた。
「じゃあぼく、お会計で」
マエダさんが小さく手を挙げた。
「あら今日は早いのね」
ケーコさんが言うと、マエダさんはチェック柄のハンカチでまた額の汗を拭い短い首で頷いた。その腹のボタンはまたひとつ緩んでいる。
「明日市原まで行かなきゃならなくて。朝四時起きなんですよ」
「うわ四時起き?居酒屋に来る人の起きる時間じゃないわよ」
千五十円でーす、ミノちゃんが言い、じゃあこれで、とマエダさんは千百円を出す。お釣りはいらないです、マエダさんの言葉に、はーいわかりました、とミノちゃんは目も合わせずに応じる。
「じゃあお疲れ様です」
小さく会釈をして出ていったマエダさんは店の前の細い道路を、きちんと左右を確認をしてから渡っていった。
「マエダさんは結婚できないわよね」
ケーコさんがぽつりと言った。
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⑤はまた今晩か明日にあげます。
天気が良いのに外出できないのが惜しい…!けどやっぱり少しでも明るいだけで、気持ちは明るくなりますね。
暫くの辛抱…。えいえいお。